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ファシズムさえも民営化(1)
2008年 08月 22日
このタイトルは,民営化がファシズムを産み出す,という意味ではない.ファシズムの実施主体が『民』である(民となる),という意味だ.
『民』とはすなわち,かの,『民営化』の『民』.政府ではなく,『民間と呼ばれる特殊な資本集団の造り上げた得体の知れないシステム』がファシズムをもたらすことになる可能性がきわめて高い,という意味である. 前置き ファシズムとはこれまでの常識からすると,強大な独裁権力を以って国民の自由を奪った全体主義システムのことと言って良いだろう.つまり,ファシズムの主体は強大な独裁国家であったはずである. しかし,最近気づいたことであるが,新たな形態のファシズムが静かに表通りを堂々と,全く装いを違えてすぐそこにまで来ているのではないだろうか.そのように思えてならない. ファシズムの侵入には皆十分警戒感を持っている.しかし,その警戒はファシズムが表門からだけ侵入してくることを想定したものにすぎないとしたらどうだろう.それが装いを変えて,全く予想外の所から侵入してくる怖れがあるとしたらどうだろうか.この記事ではそれを考えてみたいのだ. 従来のファシズムは強大な権力を持った「大きな政府」が産み出したはずだ.いかにファシズム国家といえども,そのシステムは外見上は法治主義の形を取る.個人や団体を弾圧するのも,その正当性は法律によって保証されるのだ.そういう根拠は強大な権力で必要なだけ作り出すことができる.治安維持法しかり,ナチス下の全権委任法?もそうなのだろうか?そういう法的な根拠があって,全体主義を完成するのである.完成後はどんな法律違反も誰にも咎められることは無い. 事の初めはポピュリズムだろう.単純な庶民の心性がくすぐられ,圧倒的な庶民の歓迎によってそれは始まるだろう.しかし,そのうち,どこかおかしいと気づき始めるかもしれない.でもその時はもうすでに遅い.その強大な権力の前に人々は恐れあきらめ,そして心を変える.逆に一番の寵愛を自分が受けるべく,先を争って強大な権力に迎合していく. 以上のアウトラインは従来のファシズムを念頭に置いてざっとまとめたものだ.これを表門から侵入を企てるファシズムの姿,としていいだろう.【注】 この記事の目的は,姿はこれと全く異なるファシズムを描くことだ.しかし姿こそ違え,同じファシズムであることを訴えたい. 新自由主義とファシズム 新自由主義は『小さな政府』を標榜する.ファシズムは上に見たように,強大な国家権力を要するイメージがあるのに対し,「小さな政府」とは国家権力の役割がきわめて低いものと思わせる.また,方や新自由主義!自由を謳歌するイメージを喚起する.方やファシズム,究極の自由侵害システムである. このように,新自由主義とファシズム,これら両者はあたかも対極にあるかのように見える.しかし,これは単に言葉の偶然のイタズラでしかなく,両者は同位体なのである. では,新自由主義は究極的にどのようなファシズムをもたらすのだろうか.それを以下に見ていくことにしよう. 未必の全体主義 『未必の故意』という法律用語があるが,新自由主義下の全体主義は『未必の結果』と言ってよい状況で実現されるだろう. もう少し違った形で言い換えてみよう.新自由主義における得体の知れない法律,システムは,必ずしも全体主義とは直接に結びついているわけではない.例えば,派遣労働に関する種々の法律改定の歩みそのものは,決して全体主義を目指したものではないだろう.また,後期医療者保険制度もそうである.さらには,霞ヶ関以外のあらゆる組織に蔓延ってきた『外部評価システム』,これだって,全体主義に連なるとは夢にも思われていない. 『未必の全体主義』とは,直接目指したわけではないけれども,結果的ではあるが必然的なものとして全体主義が実現されてしまうことを意味する. 種々の評価システムの導入 『未必の全体主義』をもたらすシステムの重要な柱の一つが種々の評価制度である.思えば,ここ十年を少し超えるほど前から,なんだか自己評価,相互評価,外部評価,等々,あちこちの組織や社会で『評価の重要性』が謳われるようになった. この評価制度は建前上は十分な説得性を有しており,瞬く間に浸透してしまった.その結果は,日本社会の文化を根底から変えてしまったのである. ピカソとモーツァルトをも一列に並べるような評価システムの真の狙いは,価値観を一元化し,投資尺度のための数値化を施すことであったのだろうが,必然的に相互監視文化を発達させ,庶民同士を競争的関係に嵌め込むこととなった. 評価制度の導入はどのようにして全体主義に連なるか,それは評価基準,価値観の強要である.霞ヶ関を除くあらゆる組織・機関は外部評価受審を通じて,『高い評価』なるものに必然的に目標を向けさせられる. それは『単なる数値目標』にすぎないが,その数値は(人間的に)ひどいことをやればやるほど『良くなる』ように仕組まれている.かくして,その数値目標を競わせることによって,期せずして社会をある一元的価値観の下に統一することが可能となるのだ. このように統一して一体何をしようとするのか,一体誰が得するのか?あるいは,そんなにしてまでどうして得をしたいのか,と言ってもいいが,そのような疑問が湧いてくる.私にとってはそのようにしたいマインドが非常に不思議であり理解しがたいものであるが,しかし,それは厳然として存在するのである.これに関しては後のほうで考察する. ともかく,次の項目である,『上意下達システム』と併用すれば,期せずして,あるいは意図せずに全体主義・ファシズム体制が出来上がってしまうのである.表門から侵入を企てる連中だって,このような”都合の良い”システムを見逃すはずはない. 上意下達システムへの転換 あらゆる組織・会社・機関等で,外部評価システムと連動して蔓延っているのが,『上意下達システム』の確立である.国立大学でさえ,あっという間にこのシステムに席巻されてしまったという. ともすれば『群雄割拠』の赴きさえあった(国立)大学の中の教授たちは,いまやヒラ教授など助手と同じ境遇である.学長と天下り文部官僚が仕切る理事会なるもので,いまやそれこそ独裁的に大学の運営が出来るようになっているらしい.【注2】 教授たちは人体で言えば基礎代謝さえも賄えないような基礎的予算のみ配分されて,あとは学長周辺の取り巻き達の恣意的な予算配分権に翻弄されているのである. このような例は大学ばかりで起こっている事ではない.私の職場でも全く同じようなことが起こっているのである. まあ,現在は始まりの段階なので上意下達といっても上のほうにも少しばかりの遠慮があるだろう.学長といえどもその前は単なるヒラ教授だったからだ.そこから学長周辺の理事辺りのポストに拾い上げてもらったのはホントの偶然の結果に過ぎないのである. でもそのうち,遠慮そのものが無くなるのは確かだろう.そうなったら『未必の全体主義』へはもうほんのわずかの距離になるだろう. 次回へ続く 次回は新自由主義下の全体主義をもう少し具体的なアナロジーを以って表門のファシズムと比較考察します. 何はともあれ,ファシズムで何が悪い?という人には本記事の論考は無力である.そういう人には言うべき言葉も無い.しかしそうでない人に言いたいことは次のことである. 『究極の新自由主義とは民営化されたファシズムである.』 つづく. 【注】 ファシズムとは何か,を明記,ないしは定義しないと議論が空回りすることになる.ここではこのアウトラインを以ってそれに代えることとする. 【注2】 教授会など,どうでも良いことの決議機関として辛うじて命脈を保っているらしい.重要な大学の方針などはすでに全くカヤの外だという. 笑ったのは学長選挙.すでに教授会メンバーの投票結果など,単なる参考にしかされない『参考投票』扱いだそうである.最終的には文部官僚を含む理事会が決定するのだそうな.
by papillon9999
| 2008-08-22 00:01
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