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アルバイシンの丘
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随想や意見,俳句(もどき)

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宗教概念の多義性(1)
 一神教と多神教を考えているうちに,改めて気がついたことがある.我々が『宗教』という一つの言葉で表わしているものが,実に幅広い意味・内容を含んでいることである.それらを一括りにして,すべてに『宗教』という言葉を当てはめていいのだろうか?
 あるいは逆に,宗教とは標榜していなくても,マインドは限りなく宗教に近いケースが確かに存在している.たとえば似非科学を信じる心性は,似非科学が宗教の衣をまとっていなくても宗教的なマインドと区別がつかない.



 また,最近流行りのスピリチュアルに心魅かれるマインドも非常に宗教に似ている.普通は特定の教祖がいないはずだが,その心性は常に教祖を求めて彷徨うもの,といってもいいかもしれず,ちょっとした心の作用で何かに教祖たる代わりを見つけるものかも知れない.これらを今は宗教とは呼んでいないが,果たしてそれでよいのだろうか.

 尤も,宗教の定義の問題と考えれば,定義のやり直しをすれば済むことであるが,この記事では宗教の多面性・多義性を再確認しておきたいのである.というのは,通常,いろんな人の口から発せられる『宗教』という言葉が,その多義性・多面性のゆえになかなか相手に通じていないことが多いような気がするからである.

 ずっと以前の記事で,宗教の起源的なものとして『内なる神』を考えたように,本来宗教とは多義性を有するものである.現代は無論,『外なる神』によって支配されているのでその本来性は希薄化しているはずであるが,それでも多義性はなお存在している.
 そのようなすれ違いを確認する意味でも,一度解きほぐして考えておく必要があるものと無謀にも考えた次第である.本記事で雑駁にまとめた所では以下に示すようなものとなった.
(初めての試みなので大雑把で不正確と思うが,徐々に修正していきたい)

 (1) 現世ご利益をもたらすもの
 (2) 葬送の儀式を実行するもの
 (3) 邪悪なものと戦う時の力を与えるもの
 (4) この世の行いに対して死後の賞罰(天国と地獄)を与えるもの
 (5) 死という究極の不条理を受入れさせたり死生観を育んでくれるもの.
 (6) 死後のユートピアのために契約としてこの世での掟・律法を与えるもの
 (7) 祖先や出自のアイデンティティを与えるもの(祖霊信仰)
 (8) 究極・絶対の真理の根拠を与えるもの
 (9) この世における幸福感を幻想させてくれるもの

 以上はここで思いついて整理したものであるが,こうしてみると宗教とはなんとたくさんの役割,機能を果たすものとして期待されていることだろう.もちろん,一人でまたは一民族でこれらすべてを宗教として期待しているというわけではない.
 ある人は現世利益と葬式で宗教と関わるのみであるが,ある人にとっては宗教とは来世の幸福を約束してくれる希望であるかも知れない.また,宗教とは意識されていない哲学やスピリチュアルもある人にとってはこの中に含まれるべきものかも知れない.
 もっと他にもありそうだが,学術論文ではないのでまあ,この程度で考えてみる.思うのはこれらの間には相当の隔たり,違いがあることだ.

(また長いシリーズになりそうだにゃぁ・・・泣)

 (1) 現世ご利益をもたらすものとして

 現世ご利益,これが葬式と並ぶ最もフツーの日本人が持つ宗教との関わりであろう.たとえば『交通安全』,『家内安全』,『学問成就』,など多くのものがある.
 ところが,そのご利益期待はお寺でも神社でもどこにでもやってしまうというのが実に不思議な心性.観光に行った先々で買い求めるから,あちこちの寺社の交通安全のお守りが車内にたくさんぶら下がることになる.日本における宗教は多神教だ,とよく言われるが,その根拠の一つはこのあたりにもあるのだろう.

 よく考えてみると,宗教にこのようなものを求めるのは,世界でも少ないのではないだろうか.例えば,同じ東洋人として身近の中国人(上海出身)に聞いてみても,中国人には交通安全のお守りなんか考えられないという.長年,お付き合いしてきた韓国人を見ても,そういうところは感じられなかった.
 その一方で,中国人,韓国人とも,お寺そのものにはちゃんと敬意を払っているのである.たとえ信仰が儒教であろうがキリスト教であろうが,そうである.例えば慶州の石窟庵.誇るべき文化遺産として仏教信者でなくとも韓国人は殆どすべて心からの敬意を払っている.

 西洋ではどうであろうか?無論,交通安全のお守りに相当するものはなさそうだ.その代わりに持っていそうなのが家族や恋人の写真.これがお守りになると感じているのかどうかはわからないが,もしそうであれば,一種の『ゲン担ぎ』に似ているとも考えられる.家族の写真の変わりに,変わった物=例えば鹿の角の一部,とか,ゲンを担ぐことはあるかもしれない.でもこれは宗教的なマインドとは異なると思う.

 面白いのは,日本には身代わり観音があることだ.これは自分に降りかかる災難を代わりに引き受けて下さることを期待するものだ.例えば鉄砲の流れ弾や通り魔のナイフが当たった時に,観音さまのお札なり像なりがそのナイフを受け止めてくれて自分は災難を免れる,というものである.観音さま以外にも多くのバージョンが存在している.これらも明らかに現世ご利益期待のものといえるだろう.

 一方,西洋にはこれに類するものは少ないのではないだろうか.辛うじて護符のようなものがありそうだが,これは現世ご利益というよりはサタンが取り憑かないようにというものであって,カテゴリーからすると(3)に入るものと考えられる.この他にはちょっと思い出せない.

 その他,キリスト教的なものとしてすぐ思い浮かべるのが,『主よ我に御力を!』という祈りないしはお願いだ.これは一見ご利益を求めているように思われるが,実はそうではなく『神との契約』の延長と考えるべきではないか.これについては(3)ないし(6)の項目で考えることになる.

 以上から,現世ご利益期待の宗教はほとんど日本独自のものである,という仮説をパピヨンは提示する.
 
 (2) 葬送の儀式

 一般の日本人にとっては,親しい人であってもその人の宗教が何教であったか知る機会は少ないだろう.知る機会があるとすればそれは葬式の時ぐらいかもしれない.葬式はいかに無神論者といえども自分本人の時ならいざ知らず,親を送る時には必要となるだろう.周囲,特に親戚の目が最も怖いはずである.
 葬式は主役=送られる人との今生の別れの儀式であるが,それがかけがえのない人であればあるほど別れは悲しいものとなる.残されたものも,もうこの世に生きている価値がないと思うほどである.それでも時間が癒してくれて,多くの人は再び歩き出せるようになる.

 この悲しみの感情は数万年前もの大昔でもあったようで,ネアンデルタール人と見られる遺跡の付近には花粉の化石が大量に残っている,という話を読んだことがある.つまり,遺体を埋葬し,なおかつ花を供えたという行為で死者を悼み悲しんだということである.
 あまりにもできすぎていて,ホントかどうか一抹の不安はあるが,もし本当だとすればこの悲しみは本源的なものであり,原始人どころか多くの動物もそれを感じていることだろうと思う.

 ところで,死への恐れと死別の悲しみは本源的なものとしてあったとしても,その悲しみを癒すための理屈,例えば天国へ往ったのだよ,などを産み出すまでにはまた少なからぬ隔たりがあるように感じられる.このためには『外からの理屈=共有化された宗教理論』が必要なのではないだろうか.
 なぜなら,『天国へ往った』などは一人で思い込んでもあまり慰めにはならないだろうからだ.一般的な理論として『天国がある』と認知されなければ殆ど意味はないだろう.このレベルまで来るのは,原始人や動物には無理なんだろうと思う.このあたりをもう少し深く考えると面白いかも知れない.

 (5)の『不条理な死』の項目とも関連してくるのでそこで改めて考える.それから遺骸の始末の着け方を考えるのも面白そうだが(鳥葬など)手に余るのでやめておく.
by papillon9999 | 2008-06-16 23:59 | Comments(16)
Commented by 逝きし世の面影 at 2008-06-17 16:16
晴耕雨読『教会から解放された文明』
sun.ap.teacup.com/souun/1760.html
で宗教とモラル(道徳)の関連性が論じられている。
日本人的には、うっかりする宗教の一部分なので、参考までに一読下さい。
日本以外(特に欧米)では宗教と道徳が別ちがたく繋がっている。
だから、無神論者が「悪魔の手先」とか「ケダモノ以下の存在」に見られる根拠に成っている。
神(宗教)=道徳なので、神を知らない人=道徳を知らない人なんですよ。
西洋文明(一神教世界)は、宗教(宗派)でモラルが決まる。
長年にわたってヨーロッパは、この伝統、習慣があった。
そのため東欧や旧ソ連諸国での社会主義革命後には、教会(宗教)に替わって共産党が、政治や経済だけでなくモラルにまで口を出していた。
政党が自分自身モラルを守るのは当然であるが、共産党であれ、その他の政党であれ『一政党』が、個人個人のモラルにまで介入すれば、当然反発が起こるのは自明の理です。

宗教が道徳どころか、科学もの支配していたのが一神教の世界観です。
政教分離とは、宗教のくびきから政治や科学を解き放つ意味です。
Commented by 逝きし世の面影 at 2008-06-17 16:25
一神教世界(西洋文明)では、宗教がモラルを規定していた、あるいは、宗教的価値観によってモラルの判断材料にしていた。
梅原猛の、廃仏毀釈で古代からの日本の神々が殺され、アメリカによって最期の国家神道の神も殺され、無道徳無節操の日本が出来たとする「神殺しの日本」の説とも一致する考え方です。
梅原「神殺しの日本」説は、民俗学や人類学的には批判が多いでしょうが、世界各国の一般市民の道徳感や倫理観(世界観)が宗教に由来している事実を指摘した点は認めるべきでしょう。
この感覚(考え方)が、日本人には希薄です。
モラル的に腐敗していたロシア正教に取って代わって、共産党が、教会が、今まで座っていた位置にそのまま座るのは大問題です。
しかし座ってしまった。
政党の責任範囲を逸脱して、『一政党』が、個人個人のモラル(個人の内心)にまで介入した。
共産党自体が自分からロシア正教の位置に座った時点で、科学的社会主義から、一種の一神教に変質してしまった、とも言えるでしょう。
本来無神論であるべき共産党自身が、一神教化していけば、破滅は避けられません。
1991年のソ連崩壊は、当然な結果だったともいえます
Commented by papillon9999 at 2008-06-17 17:59
逝きし世さん,コメントありがとうございます.大体においてその通りだと思います.記事の中のカテゴリーからすれば(8)に当たります.(4)も少し関係しますがもっと世俗的なものとみなしています.
とにかく,なぜ偉そうに押し付けられるのかというと,神の絶対基準,究極の真理をそこに意味づけするからですね.
ところが,西欧ではこれを科学と民主主義で別の価値観から持ってきたものと両立させてしまいました.私はそこに人間の素晴らしい叡智を見ます.ある意味で早雲さんの見方と反するかも知れません.
(8)の話ではそのようなことを書こうと思っています.
Commented by Runner at 2008-06-17 18:22
昔、ソ連東欧が崩壊した頃、日本でも東欧の人を招いて、報告会のような催しがあちこちで行われました。
私もそういう催しに何度か参加したのですが、あーだこーだとの考察の末、たいてい、講演者の東欧の人から「結局、あれは宗教だったんですよ」との説明があり、聴衆もその一言で「なるほどね」と納得して帰るというのがパターンでした。
Commented at 2008-06-17 19:13
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-06-17 22:52
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by papillon9999 at 2008-06-18 00:38
Runnerさん,どうも.
現象的には確かに旧共産圏体制と宗教はとてもよく似ています.情報社遮断による思考停止と教祖崇拝です.
でも何でも宗教と言ってしまってわかったような気になるのも問題かもしれませんねぇ.
国家と宗教の違いを考えてみました.1.国家は警察や軍隊などの合法的暴力装置を持っているのに対し,宗教は非合法リンチの手段しかない.これは,反対する場合の抑止力が全然違うことを意味します.2.洗脳から醒めた時に,宗教であれば他に生きていく道があり脱会可能であるが(難しいけど可能),国家の場合は生きていくすべは無く国外逃亡しかない.
ということで,宗教の方がまだいいのかもしれません.国家と宗教が結びついたらそれこそ堪ったものではありませんね.全体主義においては洗脳されていなくてもどうしようもなくなるのが特徴と言えましょうか.
Commented by ブログ主 at 2008-06-18 10:44
papillonさん。
(8) 「究極・絶対の真理の根拠」と私が言っているモラル『道徳』とでは大分違いますよ。
拡大解釈すれが、出来ない事は有りませんが・・・少し無理があるのでは。
基本的に日本の道徳は儒教精神で『親を大事に』とか『先輩や年長者に敬意を払う』などを宗教と関係していると考えている日本人はいません。
しかし儒教の本場である中国では孔子は神様で儒教は立派な宗教の位置付けです。
やはり(9)で終わらず、(10)として「道徳としての宗教」を入れるべきでしょう。
Commented by 逝きし世の面影 at 2008-06-18 10:50
papillonさん。
(8) 「究極・絶対の真理の根拠」と、私が言っているモラル『道徳』とでは大分違いますよ。
拡大解釈すれが、出来ない事は有りませんが・・・少し無理があるのではありませんか。
基本的に日本の道徳は儒教精神がベースになっている。
『親を大事に』とか『先輩や年長者に敬意を払う』などを宗教と関係していると考えている日本人はほとんどいません。
しかし儒教の本場である中国では、孔子は神様で「儒教」は立派な宗教の位置付けです。
やはり(9)で終わらず、(10)として「道徳としての宗教」を入れるべきでしょう。
Commented by papillon9999 at 2008-06-18 12:56
『(10)として「道徳としての宗教」を入れるべきでしょう』
そうですね.参考にしましょう.この世における行動基準を軽い意味で宗教から持ってくるのですね.仏教でもありますからね.
Commented by Runner at 2008-06-18 19:13
宗教の定義は、皆、なんとなく、感覚的に定義しているだけで、「明文化せよ」と言われるとなかなかできないですね。
ちなみに、日本の政府が宗教法人を認定する際には、確か、下記の3点を満たしているかを基準にしていたはずです。(違ってたらごめんなさい)

1)教義・経典がある。
2)礼拝施設がある。
3)信者がいる。

しかし、昔から神道は「教義がない」とされてきましたし、これでは皆が納得できる「宗教の定義」とはいえないと思います。
また、余談ですが、幹部がテレビ番組に出てきて「ウチは宗教ではありません」と主張する「幸福の科学」が、なぜか、宗教法人を申請して、しかも、認定されているという話もあります。
Commented by papillon9999 at 2008-06-19 08:59
幸福の科学は実に不思議な集団です.あのトンデモ性はトップクラスにありながら,信者は本で洗脳されるのですよね.
つまり,あるところに始終信者を集めるのではなく,従ってそれほど情報遮断はひどくなく,信者は自由に批判本も眼にするのですが,なぜか信者は魅きつけられて信者をやめられません.
Commented by 逝きし世の面影 at 2008-06-19 10:45
papillon9999 at 2008-06-18 00:38
>洗脳から醒めた時に,宗教であれば他に生きていく道があり脱会可能であるが(難しいけど可能)

日本人的にはそうですが外国では、そうでもないようです。
一神教では、棄教は最大の犯罪行為です。
だから教義を厳格解釈すると、棄教=死刑と成る。しかも外国に逃げても「悪魔の詩」の例のように処刑の恐怖はなくならない。
アメリカ軍の造り上げたカルザイ政権下のアフガニスタンで、キリスト教に改宗した住民を死刑にしようとしていた地元政府をギリギリ阻止した事件が有りましたが、此れも西側報道陣に情報が漏れたので阻止できたが、問題が公にされされなければ、粛々と死刑が実行されていたでしょう。
特に怖いのは、地元政府の処刑ではなく、親族間での処刑です。これは一般に公にされませんので防ぎようが無い。
宗教に比べれば,国家の方が一歩でも国境を越えてしまえば逃げれます。
島国の日本人には『亡命』するという選択肢を考える人は殆どいませんが、地続きの大陸国家の住民では、国境を越えて逃げる『亡命』は普通に有りうることです。
Commented by 逝きし世の面影 at 2008-06-19 10:45
対ソ干渉戦争でバイカル湖付近に駐屯していた日本軍の一兵士だった私の父親は、『このままでは命が危ない』『何とか脱走して亡命できないか』と真剣に思案していたそうです。
亡命とは縁の無い、普通の日本人でも、自分の置かれた場所が地続きだと、発想も違ってくる。
しかし、自分のいる場所の正確な情報が無い、敵軍の配置も日本軍の動向もわからない、白色パルチザンに捕まった場合の命の保証が無い。言葉も解らず地図一つ持たされていない一兵士には戦場からの逃亡(亡命)は難しいようです。
Commented by papillon9999 at 2008-06-19 12:08
そう,宗教も離脱は難しいのは確かですね.棄教は即死刑を食らうことになることも多そうです.
それから不義を犯した妹を兄が何年もかかって追いかけて処刑する,という話も聞いたことがあります.誇張ではないように思えるのが怖いです.
Commented by Runner at 2008-06-20 02:37
科学革命の前と後では宗教概念も変化したように思います。
現在では、それを受け入れない世界観を持っているものが宗教なのでしょう。
ソ連ではレーニンの遺体を保存して「参拝」していたので、きわどいところだと思いますが、一言、レーニンの魂について言及していれば、晴れて宗教になったと思います。

もっとも、定義というのは社会的意義が優先されますので、人々が「宗教みたい」とか「宗教的」とか言う場合は、そういうオカルト的な事柄とは別に、宗教が持っている社会的に見てマイナスと思える側面にポイントが置かれているように思います。
つまり、東欧の人が「あれは宗教だった」と語るのは、信じている様が、まるで宗教と同じ「信仰」や「崇拝」に該当するようなものだったということを指しているのだと思います。