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最も怖いのは隣組(日の丸・君が代問題)
2008年 06月 11日
今年も東京都の教育現場では,卒業式と入学式において現場の教師の『職を賭けた=生存を賭けた』闘いが闘われた【注1】.その結果,今年もまた多くの処分者が出た.
その先頭でがんばってきた根津公子さんと河原井純子さんは,停職六ヶ月というきわめて重い処分を受けた.(ただし,根津さんは前回すでに停職六ヶ月の処分だったので,懲戒免職も危惧されていた.それを六ヶ月で押し止めることができた,という見方もあるようだ.) ところで,この記事の目的はその詳細な紹介ではない(私はその任にあらず).そのような行動に出る教師たちへの非難がましい皮肉な見方が実は庶民レベルに存在しているのである.この記事ではその心性を問題にしたい.(東京都教育委員会の権力からの強制そのものへの批判は他稿に譲る.) 根津さんたちの闘いを収めたビデオ,『君が代不起立』を見ると,彼ら(日の丸・君が代強制に抵抗している人たち全体)は決して東京都教育委員会の権力亡者どもだけと闘っているのではないことがよく分かる. 保護者や生徒達のみならず,学校近辺の地域住民たち,(いずれもすべてというわけではなくある割合の人々)のような庶民達からの直接・間接の抗議や揶揄,それに冷ややかな態度や目線,などとも闘わねばならないのである【注2】. それは一言で言えば,次のような『庶民の論理』との闘いである. 『周りがみんなやっているのに,一人だけ日の丸・君が代の強制に抵抗するのは全体の調和を乱す.個人のわがままだ.』 『何であんなに反対するの?目立ちたいからなの?』 『せっかくの卒業式を乱してくれていい迷惑だわ』 『なにもこんなことで目くじら立てないでもいいのに』 ・・・ これは個人の『”思想と良心の自由の権利”に基づく行動原理』【注3】への反感である.そしてもっと奥深い所には,『日本人のくせに西洋起源の権利意識という”外来文化”に染まっている』という嫌悪感も隠されているのかもしれない.【注4】 こういう素朴な(つまり俗情に基づく)庶民の論理は極めて怖いものがある.なぜならば,それは『全体の論理』という暴力装置を容易に手にする可能性が高いからである.近年,権利意識の肥大化というものが危惧され,しばしばそれへの反発が表出する.それは『もっと共同体として仲良くやろうよ!』という形を取って出てくるのである. いや,共同体意識への回帰志向自体は好ましいものかもしれない.しかし問題は,それがしばしば個人の『思想と良心の自由』を求める行動原理=『個人の権利意識』への非難となって現れてくることである.つまり『個人の権利』が『全体の論理』に席巻されてしまう,その争いの現場の一つとして日の丸・君が代問題が存在している. これから言えるのは,『最も怖いのは隣組』ということだ.そりゃ憲兵は怖いけどやはり弾圧しているという後ろめたさはあるだろう.いや,ないかもしれないが,後世,非難されるのは分かっているはず.隣組の怖さは,無自覚で時にはそれが正義として押し付けられるという所にあるのだ. 自らの生存を賭けて日の丸・君が代の強制に抵抗する人たち(やむなく涙を呑んで命令に従った人も含む)と,なんらの問題意識も持たず言葉も持たず,ただ俗情の赴くままの怠惰な人たちを同列に論じてはならない.上のような『庶民の論理』は一顧だにせず捨て去らねばならない. やむなく涙を呑んだ人も含めれば,抵抗したい人はたくさんいたはずである.それが結局は一人,二人と数えるほどに減ってしまう.そのことは何を意味するか.そこから汲み取るべきは 『最後の一人になるまでやるのはどれだけの重い決断が必要か』 ということである.そのような重いバイアスのかかった行動と俗情のままの怠惰な行動とを,『個人の権利対全体の論理』などと同列に並べて,『選択の問題だ』などとほざくなど論外である.そのような上質な二項対立ではない.重い決断か軽い俗情か,と言う対立に過ぎない. 日の丸君が代問題は,『市民対庶民』で対立していい問題ではない.『権力対国民』の問題なのである. 【注1】 九州の田舎では,日の丸・君が代に抵抗するものなんていりゃしない.みんななんということもなくさも当然のごとく振舞っている.ここで抵抗なんてしたらそれこそ『庶民の目線』が黙っちゃいないだろう.これがいわゆる『アカ攻撃』である。 【注2】 聞いた所によると,同じ反権力で闘って来た仲間であるはずの人からさえ,”もうやめてくれ”,と”裾を踏んづける”ような有形・無形の圧力が存在するようだ.その人たちは自分の闘いを終えたのだが,まだ闘い続ける人がいると肩身が狭く感じるものらしい.闘いはやむなく止めてもいいからせめて”裾を踏んづける”ようなことはやめてね. 【注3】 この闘いは個人の権利主張,という形を取っているが,それはどの個人のためでもあり,本質的に社会全体のためのものである.だから,『個人の権利』と言ったとき,それは特定の個人のためだけではないという意味で,社会全体の権利となるのである. 【注4】 『日の丸・君が代というものは『日本国のシンボル』だ,それに敬意を捧げることは当然のことで,それを拒否する個人の権利など存在しない』という論理が底流にある人も多いはずだが,ここではそういう価値観自体を俎上にあげているわけではない。つまり,アカの論理を擁護しているわけではない.庶民が(そういう意識も手伝ったにしても)同じ庶民を攻撃することの怖さを考えているのである.
by papillon9999
| 2008-06-11 00:19
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Comments(55)
多くの庶民は「別に歌っても立っても、どっちでもいい」と感じていると思います。だから、みんなと同じように歌って立つ人が多い。しかし、歌わない人、立たない人がいる。何故、歌わないのか、立たないのか?この理由がよくわからないのが多くの庶民です。権力の側はよくわかっている。何故、歌わないか、立たないか、を。権力は現場を従わせたい。授業内容まで従わせたい。労働条件も従わせたい。これに対し、現場の教職員は自分たちで自分たちの教育をしたい。自分たちの式典をしたい。現場に教育を任せるとどうなるか?権力はこれを恐れている。民主主義は権力批判、権力監視ですから。抵抗する教職員の人々は民主主義を徹底しているのであるが、傍観する庶民、攻撃する庶民は権力の側に立っている。結局、権力と国民の関係をきちんと訴えるしかないですね。
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papillon9999 at 2008-06-13 02:33
東西さん,どうも.
庶民は権力の側に立っているという自覚がないんですよね.そもそも権力側って何かということがわかりません.これは別に庶民を馬鹿にしているわけではない,イノセンスの罪を指摘するのみです.
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東西南北
at 2008-06-13 17:41
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そもそも、権力の側って何か、ということを庶民の大多数はわかっていない。もっともです。これがわかれば一気に労働運動、政治運動が盛り上がりますよ。「日の丸・君が代」でいえば、歌う歌わない、立つ立たないは国家権力が決めることではなく、国民自身が決めるという国民主権ですね。予算案、法案、条例案も国民、住民自身が決めるのであり、国民、住民の頭越しに議会の政治家が決めている現状があります。せめて、与野党で対決する予算案、法案、条例案くらいは国民投票、住民投票で国民合意があるかないかを検証し、国民合意がなければ議会は議決できないというくらいのことが必要だと思います。要は、主権者意識を眠り込まされているのが庶民の大多数です。企業でも同じですね。権力の政策、企業の経営については説明責任を徹底追及し、「わからない」場合には「わかる」まで説明を求めるというのが民主主義ですね。この主体性が眠り込まされています。
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東西南北
at 2008-06-13 18:17
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ちなみに、検定教科書の問題、受験制度の問題なども国民投票で国民合意があるかどうかを国民的に議論を巻き起こし、問えばいい、と東西は考えています。それをしないで頭越しに検定教科書を押し付け、受験制度を押し付けるのが権力の教育政策なんです。自分たちで自分たちの子供らを教育するという民主主義教育運動を盛り上げることで権力に眠り込まされている庶民も目を覚ますということでしょう。検定教科書については、権力者を教科書検定委員会に入れないことが必要ですね。現状は文部省主導です。これを保護者、学者、教職員、子供らだけで構成すればいいわけです。受験制度は不要なので廃止でしょうね。希望者全員入学を実現すればいいのです。
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papillon9999 at 2008-06-13 22:16
ほとんど特に異論はありませんが,最後の『受験制度は不要』はちょっと限定した話をしないと一般論としては無理なんではないでしょうか.
向き不向き,能力,等々の問題があります.特に理工系や医師薬系,芸術系には事実上,難しそうです.ある程度の定員化はやむをえないものと思われます.
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東西南北
at 2008-06-14 13:06
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こんちは。パピロンさん。高校、大学へと入学を希望する子供たちについては、小学校、中学校へ進学するのと同じように無試験で全員進学は無理でしょうか?無理ではないように思いますよ。中学生、小学生で学習の遅れている子供たちには特別に学習援助すればいいわけです。戦線の数を増やすとか、少人数制にするとか、子供たちで教えあうとか。高校も同じだし、大学も同じでしょう。こうして遅れている子供たちをサポートする学習条件を整備していけば「向き、不向き、能力格差」などで「断念」する必要はないのではないでしょうか?もっとも、就職してからは労働能力に応じて賃金格差はつけなければならないですが、学校で学習している時には格差をつける必要はないでしょう。ゆえに、学校間格差、能力別学級編成などは不要だし、受験制度も不要ではないでしょうか?
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papillon9999 at 2008-06-14 13:25
東西さん,これは争点になるなぁと思っていましたよ(^o^)/
まあ,ゆっくり考えましょう.結構大事なことですよね.人間を大切にするという視点からすると,定員化で切り捨てられる人が出る,というのはそれに反することのように思えます. しかし,理工系,医歯薬系その他も,内容は非常に高度な所まで達しなければなりません.それは意欲や誠実さだけでできることではないのです.それも必要ですが,それだけでは済まない. 適切な道を探ることは結局は本人のためなんですね.途中で挫折するよりは早くから別の道を探った方が本人のためです. ただし,今の受験制度が良いといってる訳ではありません.いくつかの改善すべき事項を私は持っていますが,いずれにしてもある程度の定員化は必要(悪)だと思っています. それから,勉強したい人のタメに,公開講座やカルチャーセンターを充実させるなど,知的好奇心を満たす方策も同時に必要だと思います.
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東西南北
at 2008-06-14 14:51
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これは。笑。受験で切り捨てることが「本人のため」と本人でもない人が決定するというのは、間違いではないでしょうか?本人が希望する大学なり、高校で学習することは当然ではないでしょうか?もちろん、職業に必要な能力を資格試験化して、職業能力の資格試験に合格しなければ仕事をできないということは必要なことだと思います。が、この場合にも、例えば、医学部へ入学し、学習するが、パピロンさんの言うように「能力不足」で職業資格試験に合格しない場合がある。この場合には大学を卒業することは本人の意思で可能だが、医者として医療現場で仕事をすることはできませんね。見習いとして医療現場で「できる仕事」でもしながら医師になる職業資格試験に合格するまで学習すればいいことです。このように勤労しながら職業資格を取得しようという人への公開講座、カルチャーセンター、職業資格制度への支援も大切ではないでしょうか?
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papillon9999 at 2008-06-14 16:49
希望だけで医学部に入っても卒業することは覚束ないでしょう.本人のため,というのはそういう意味です.もちろん,チャレンジすることはかまいません.忠告なだけです.
ただ,働かなくてもみんなが食っていけるような仮想的な理想社会であれば話は別です. 医学を教育するのに定員を無視してまともな教育ができるはずはありません. ただし,今の医学部定員は増やすべきだと思います.
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東西南北
at 2008-06-14 20:20
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パピロンさん。こんばんわ。うーん。教育に定員管理が必要ですかね?教育に定員管理を持ち込むと自分が学習したいことを学習できないという事態になりますよ?これを回避するには定員を廃止し、希望者は全員入学させた上で、教育条件を整備することじゃないですかね?何も問題はないと思いますよ。パピロンさんが心配していることは、死ぬまで大学、高校で勉強しているということでしょうか?笑。ま、ごく一部はそんな人も発生するでしょうけど、体勢は卒業して勤労に励むんじゃないでしょうか?卒業も本人が卒業できるような学習環境を国家の責任で整備し、21世紀の人づくりをすることが必要ではないでしょうか?今はエリート主義で差別、選別しているのであり、受験で能力を決め付けて学習権を侵害しているのではないでしょうか?ともあれ、大学を卒業しても職業に必要な資格は別途、取得しなければ特殊な職業はできませんね。それは分かりますが、その場合にも定員を管理する必要があるのでしょうか?競争試験ではなく、資格試験でよいのではないでしょうか?
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papillon9999 at 2008-06-14 20:58
東西さんこんばんわ.厳密な定員管理に精力を注ぐのは本末転倒ですが,希望者すべてが医師になれるわけではないのは自明ですよね.卒業や国家試験の際にいつかは断念せざるを得ない.
それでも医療現場の仕事をしたいなら,検査技術師や看護士もあるし,こういう仕事でも国家試験で断念せざるを得ない人も出ます. 例えば東京大学の医学部で希望者全員を教育できますか?恐らく何千人も殺到するでしょう.医学でも解剖実習やさまざまな演習が必要ですし多くのレポートを見なくてはなりません.優秀な医者になってもらうためには教育にも手間がかかりますが,希望者全員にそれをやるのはほとんど不可能です.限られた教育資源をやはり有効に使わなくては優秀な医者に育てることは困難と考えられます.(定員が必要悪と考える所以です) 経済学や文学などは定員管理は比較的緩やかで良いでしょうが,真に優秀な人材を作るにはやはりある程度の規模に留めることが必要でしょう.先生の素晴らしい薫陶というものは,千人もの人に伝えることはできにくいでしょう.本を読んで薫陶(匂いに過ぎないでしょうが)を受ける事だってできますから,別に大学である必要はないのではないでしょうか.
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at 2008-06-14 21:12
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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東西南北
at 2008-06-14 21:47
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希望者全員が希望の職種へ就業することは極めて現実的ですよ。理由は、人間は多様性を持った自由な存在だからです。日本の子供たちが全員、医師を職業に希望することなどありえないでしょう。笑。超画一的な社会で、それこそ職業選択にあたって人間の多様性を否定し、管理する統制経済の社会にしなければ不可能なことです。医師に場合でも、医学部を卒業できるような学習条件を国家責任で整備すればいいわけです。これが学習権の保障でしょう。卒業後に、医師の職業資格試験に不合格なら医療機関に勤労しながら学習するという方法もありますし、学習できるような労働条件を整備していくことも必要ではないでしょうか?別に大学や学校で学習しなくても自宅や公民館でも学習はできるのですが、学校で学習することを希望する人は全員入学で学習権を保障すればいいのではないでしょうか?もちろん、自宅や公民館で学習する人への支援も充実させていく必要はありますね。要するに、定員管理というものは教育機関には不要だということ。次に、職業選択にあたっても人間は多様なのであるから希望する職種に就業できる社会が自由社会ということではないでしょうか?
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papillon9999 at 2008-06-14 21:53
そうですね,現実的と思うかどうかは見解の相違としておきましょう.ご意見ありがとうございました.
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東西南北
at 2008-06-14 22:25
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こちらこそどうもありがとうございました。おやすみなさい。
papillon9999さん、アルバイシンの丘さん、こんにちは。私もいろいろ国旗国家国家意識日の丸君が代について書いてます。そのうちのいくつかをトラックバックさせていただきました。この記事でおっしゃっていること、私もよくわかります。せめてインターネット上で風通しをよくしようといろいろなネタを考えていろいろな角度から書いていますが、私に賛同する方向のコメントを除くと、返ってくる反応はアルバイシンの丘さんがおっしゃるような内容です。気が重くなるのは、どれも同じような内容だということです。無条件反射的だからどれも同じような内容だとしたら、立ち止まって考えてみない人が多いことの証左なのかと悲しくなります。
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papillon9999 at 2008-06-25 00:17
村野瀬玲奈 さま,ようこそいらっしゃいました.たくさんのTB記事とコメントありがとうございます.
実は今,徹夜を覚悟した書類書きをやっています.ふと気晴らしに見たら,賓客が訪問してくださっていて,喜んでいます. そうですね.お悩み,お察しします.俗情が幅を利かす問題ですね,私は.『一木一草に天皇制が宿っている』,ということに通じていると思っているんですよ. 今は取り急ぎお返事のみ.ありがとうございました.
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papillon9999 at 2008-06-25 10:20
村野瀬玲奈 さま,御記事を拝見しました.なんとコメント欄が物すごいことになっていますね!
日の丸君が代を強制することは仰るように明らかに”精神的強姦”です.我が国の庶民は(というより我が国に限らず)庶民の俗情というものは時としてホントに恐ろしいものです. どうしてこんなにもアイデンティティというものを欲しがるのでしょう.いや,欲しがってもいいのだけどそれを他人に強要する,という心性が信じられません.
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kyusedai
at 2008-08-14 10:22
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入学式卒業式での国旗国歌は精神的強姦ですか?
五輪表彰式にてメダルを首に掛けてもらうとき、上体を傾けるのは何とも屈辱的だと感じるので無造作に片手で受け取り、そして、メダルを尻ポケットに突っ込むというような所作をする選手がもしいたなら、そして、国旗掲揚国歌吹奏の段になったらさっさと一人表彰台から降りて帰ってしまったという行動を取った選手がいたなら私は何とも非常識で我儘な選手だと感じます。 その選手が日本の現役の中学校教師だったとしたら即刻教職を辞めて欲しいと私は思うでしょう。これも恐ろしい俗情でしょうか?
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papillon9999 at 2008-08-22 13:35
kyusedaiさんのご意見は隣組を構成する大多数の一般国民の最も標準的な素朴さにあふれたものだと思います.
しかし残念ながら,その素朴な感情の中には大きな誤解が含まれているのです. 1.『メダルを首に掛けてもらうとき、上体を傾けるのは何とも屈辱的だと感じる』 大きな誤解でしょう.お辞儀をすることや何かに敬意を表すること一般に対して忌避しているのではない,です.普通の市民と同じですよ. 2.日の丸・君が代の強制を忌避することは日本国を嫌うことと同じではないですよ.忌避する人たちがなぜ日本国憲法を大事にしているか考えてみてください.大事な日本だからこそ,大事な憲法なのです.ここにも大きな誤解が存在します. 上の二つから,メダルを尻ポケットに突っ込んだり表彰台に背を向けたりする人がいるとは思えません.
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papillon9999 at 2008-08-22 13:36
特にオリンピックは個人ではなくて国の枠を持って出場するものです.従って国家識別が重要になります.もし国を嫌っている選手なら出場さえしないでしょう.
これで思い出されるのが,東京五輪かなにかでの話です(うろ覚えなので細かい部分は違っているかも知れませんのでそのつもりでお願いします) 陸上100mで優勝したヘイズ選手だったか?表彰台の上で米国国旗に対してこぶしを突き上げ,抗議の意思を示したことがあります.当時の黒人差別の激しい自国への明確な抗議の意思表示です. 私はこれを見て,米国のひどさとともに健全性にも併せて感動したことでした.
こんばんは。
御紹介の件はメキシコ五輪のことだと思います。黒い手袋を嵌めた拳を突き上げたシーンを覚えています(うろ覚えですが)。下記の記事によれば、IOCの処分を受け、米ナショナルチームから除名され、帰国後は職に就くのも難しかったとのこと。 http://www.afpbb.com/article/politics/2378179/2832569 「五輪での抗議、代償は大きい」メキシコ五輪の米黒人代表が警告 アメリカにも「隣組」もしくは「隣組的な状況」は存在している(していた)ようですね。
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papillon9999 at 2008-08-23 22:18
やあ,いらっしゃいませ.
うろ覚えの間違いを指摘していただき,感謝します.そうか,ずいぶん間違っていましたね. 1.メキシコだったんだ 2.ヘイズ一人ではなくトミー・スミスとジョン・カルロスの二人だったんだ 3.200mだったんだ 4.その後職にも就けないような冷遇に遭ったんだ 私の『健全性も感じた』というのは全く頓珍漢な感じ方だったのですね.とても気の毒でした. ところで,この二人の北京五輪に対するスタンスはネガティブですね.どういう背景から来てるのでしょうか.少数民族問題かな? それにしてもアメリカでも庶民の攻撃が怖いですよね. 同じ正義感を振り回す人間でも,日本だとせいぜい石を投げるぐらいですが,あちらは銃がありますからね.日本にも銃があれば同じ危険性が出てきます.
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kyusedai
at 2008-08-24 17:24
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>上の二つから,メダルを尻ポケットに突っ込んだり表彰台に背を向けたりする人がいるとは思えません.
思えないのは自由ですが、そういう行動をした選手が居たらという仮定の話です。もっとも、私のコメントの後に北京での表彰式で似たような現象が起きましたが・・・その後彼に与えられたメダルは剥奪されました。 学校での国旗掲揚国歌吹奏に対する一部教師の非礼な態度は単なる権利の濫用そのものと私は感じるのです。非礼を教師がその行動をもって入学式・卒業式に示すのであれば私もそのような教師は公立学校から去って欲しいと思います。 もっとも非礼を非礼とも感じない素朴な教師のことですから、自身の給料の源泉の税金が誰の労働の結果生じるものなのかを感じることも不得意なのでしょうか。
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papillon9999 at 2008-08-24 19:19
今,遠くの出張先から慌しく書いています.
kyusedaiさんの言われる『非礼』とはどんな行為をさすのでしょう?まず,それを互いに確認しなければなりません. 私が『非礼』と断じるのにためらわないのは,演壇に駆け上がってそこにある日の丸を引きちぎったりすることです.なぜなら,それは暴力行為であり,そこにある日の丸に心を込めて敬意を表している大勢の庶民達の心を踏みにじるからです.すでに演壇に日の丸があるという現実は仕方がありません.それを変える運動は別の方法に従うべきです.
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papillon9999 at 2008-08-24 19:20
でも,起立・礼の命令に従わない,君が代を歌わない,このようなことは『非礼』とは思いません.不起立の意思表示をしたい人にとっては,日の丸・君が代とは,未だに『ハーケンクロイツ』と同じだということです.ドイツのように,真に反省して禊の終わった日の丸ならば,何の問題もありませんが,とにかく今のままでは侵略のシンポルという汚名を晴らしてはいません.「ハーケンクロイツ」を強要されることと同じに思えるのです.
そういう不起立の教員が教職を去るべきだとは思いません.公務員は日本国憲法に従い,守る義務があるのです.それに抵触しない限り,職を追われる事はありません. ところで,日本を大事に思うからこそ日本国憲法を大事に思っているということに,kyusedaiさんは同意していただけますか?
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kyusedai
at 2008-08-25 23:29
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中華人民共和国の赤い旗。
共産主義者が次々と策を弄し支那国内のみならずチベット等を侵略し合わせて数千万の人々を殺戮しながら維持している中国の赤い国旗。 例えばある学校で、その五星紅旗は「ハーケンクロイツ」以上に人間の尊厳を否定する血塗られた国旗であるからとして中国からの留学生歓迎交歓会での中国国旗着目国歌吹奏時に不起立・退席などを行った教職員が後に何らかのペナルティーを受けたとすれば、私はそれはもっともな采配だと感じられます。 それぞれの国旗・国歌に対する各個の思いは随意です。誰もそれを束縛は出来ません。しかし、公共のあるいは当事者が存在する場での特定の国旗・国歌に対する否定的行動は非礼(侮辱)に当たるからです。
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kyusedai
at 2008-08-25 23:31
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生徒を指導教育する教師は自己の気持ちをコントロールし、卒業式等での国旗国歌に非礼を働くべきではありません。
自己の気持ちをコントロールできずに非礼を働くなどは稚拙さを通り越して単に悪意ある行為そのものと私は感じます。 悪意とは知ってて事を行うと言う意味です。 つまり、大切な卒業式で不起立・退席をすることが誠に非礼な行為だと知っているけれども自己の主義主張を通す方が価値ある行為と認識しての行為なのだと想像します。 もはや教師と言うよりは単なる未熟者なのだと私は認識しています。 >ところで,日本を大事に思うからこそ日本国憲法を大事に思っているということに,kyusedaiさんは同意していただけますか? 言ってる意味が理解できません。 もしかして・・・増田郁子的コメントですか?
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papillon9999 at 2008-08-25 23:53
ある人たちにとって,五星紅旗はハーケンクロイツに相当する,と感じられるわけですね.そしてそれを規制する中国当局に理解を示されるわけですね.
私は逆です.その抗議がどの程度のものかで変わりますが,不起立・退席程度で過酷なペナルティを科す,とすれ中国当局を非難せざるを得ません.どの程度かというケースバイケースです. 公共の場における否定的行動が非礼に当たる,というのはその内容と程度に依存して,一概には言えません.ケースバイケースです. ほんとうは,庶民がその判断力を備えているべきなのです.
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papillon9999 at 2008-08-26 00:05
すみません.コメントが行き違いですが,「非礼」という行為の同意がまだ確認できていません.何を非礼と感じられるのか,まず共有しましょう.
不起立・不歌唱が非礼と仰いますか?私はそれは非礼とは思えません.それは上に述べたとおりです.それを規制するのが不当なのは中国当局であっても同じです. >日本を大事に思うからこそ日本国憲法を大事に思っているということ,がどういう意味か理解できない これは変ですね.日本国憲法を大事だと思うことは日本国をめちゃくちゃな国にしない為に必要と言うことです.日本を大事に思っていなければそんなことはどうでもいいのではないですか? どこかの国の憲法にあなたも私も関心が普通はないですね.それはその国の憲法が自分に関係があるとは思わないからです. 大事に思うのならば,より良い憲法を望むではありませんか.
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kyusedai
at 2008-08-26 21:14
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例えばの話が良く理解されないようです。私の文章力のせいなのでしょう。
要するに、中国から客を迎えた公立学校での歓迎式典にて中国国旗掲揚・中国国歌演奏が行われたとき、歓迎する立場の教師が起立もせず横を向いて手で耳を塞いでいたとしたらマナー違反(中国からの客に対し非礼・侮辱)なのだと思います。 その行為を上司から改めるように指導されても聞く耳を持たない態度を示すようなら、国旗に対する指導を行うべき教師として不適格であると何らかのペナルティを科されることは至極真っ当な対応であると私は思います。 日の丸・君が代に対しても同じことなのだと私は思います。
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papillon9999 at 2008-08-27 01:49
例えばの話,理解できました.中国の客を日本で迎えた時,反中の意思表示として不起立やマナー違反を犯したら非礼・侮辱に当たる,ということを主張しておられるのですね.
これもまた状況設定にずいぶん飛躍がありますね.それでも考えて見ましょう. 『五星紅旗は「ハーケンクロイツ」以上に人間の尊厳を否定する血塗られた国旗であるとしたら』,という前提自身,意味を持ちません.なぜならば,もしホントにハーケンクロイツ以上にひどいことをしたのであれば,そういう歓迎式典などあろうはずがないからです.国交は断絶しているはずです. もし,国交が断絶していないとすれば,ハーケンクロイツ以上の悪いことをした,という前提が当てはまりません.そういう状況下で,ある個人がそういう主観を持っていて,『ハーケンクロイツ以上の悪いことをした』,という思い込みでやったとしたらそれは非礼に当たるでしょう.相手国への主権侵害に当たります.
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papillon9999 at 2008-08-27 09:23
もう一つ,米国のベトナム侵略戦争を考えてみましょう.それに反対する意思表示は自由ですが,その戦争遂行に全く責任のない人たちに対して不起立その他の事を行えば非礼に相当するでしょう.当事者でない人への抗議は的外れで許されません.
一方,歓迎式典に来た人々が侵略戦争の当事者たちであるとします.なぜ公立学校でそういう人たちの歓迎式典をやるのかわかりませんが,もしベトナム戦争の正当化キャンペーンであれば,式典になる前に歓迎反対運動が盛り上がることでしょう.式典が強行されたとして,式典での態度が非礼に当たるかどうかは,その内容と程度によります. 以上のように,日の丸君が代の不起立と上の例は,「不起立」という見かけの姿が同じだからといって同列視できることではありません.日の丸君が代不起立教員は上の例のようなことは決してやりません.
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kyusedai
at 2008-08-27 21:52
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>以上のように,日の丸君が代の不起立と上の例は,「不起立」という見かけの姿が同じだからといって同列視できることではありません.
なるほど、あなたはそう認識されるのでしょうが、国旗に対する敬意を教育すべき教員が生徒の前で非礼を働いた という状況は同じだと私は思います。 >五星紅旗は「ハーケンクロイツ」以上に人間の尊厳を否定する血塗られた国旗であるとしたら』,という前提自身,意味を持ちません.なぜならば,もしホントにハーケンクロイツ以上にひどいことをしたのであれば,そういう歓迎式典などあろうはずがないからです.国交は断絶しているはずです. この論理は公平妥当なものとは私は思いません。なぜなら、国家による不当な人殺しの人数において中華人民共和国の方がナチスドイツより勝っているからです。そしてまた、政治的影響(戦勝国)に左右された論理なのだと認識します。
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kyusedai
at 2008-08-27 22:00
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公立学校教職員による国旗に対する非礼はいろいろありましたね。国旗を掲揚しようとする校長につめより土下座を迫ったり、卒業式当日、日の丸反対のビラを配ったり。
このような非礼が公立学校でなくなることを願っています。
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papillon9999 at 2008-08-27 23:40
『国家による不当な人殺しの人数において中華人民共和国の方がナチスドイツより勝っているから』
これは一般的に共有されていることではないですね.いつの時代の話ですか? ただ,すでにベトナム侵略戦争の例で申し上げているように,本当にひどいならば抗議はありうるでしょう.やり方の問題になります. 式典を強行した時に,会場に乱入するなどは警察沙汰でよいと思いますが,会場周辺で抗議の意思表示をするのは許されるはずです. 『校長につめより土下座を迫ったり』 こういう事実があればそれはやりすぎですが,『土下座を迫る』というような行為が本当にあったのですか? ですから,内容によっては非礼に当たる,と申し上げています.しかし,何が非礼に当たるか,という認識が共有できのていません.その例として五星紅旗云々の例は不適当だと申し上げました. 以前は日の丸君が代反対する人の数も多かったので校長の方が苦労した様な気がします.でも今は反対行動する人はごくわずかになってしまいました.
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papillon9999 at 2008-08-28 08:54
繰り返しになりますが,侵略の禊の終わっていない日の丸君が代に服従したくない心は尊重されるべきです.そのような日の丸に早くなって欲しいと思いませんか?kyusedaiさん.
私も一つ仮想的な場面設定が浮かびました.新型政権ができて日の丸を変えることにしたとします.デザインは, 伝統日本が復活して,日本人のシンボルとして富士山に桜の絵になっちゃった,あるいは 左翼労働者に乗っ取られて,つるはしの絵になっちゃった,あるいは キリスト教勢力が強くなって十字架をモチーフにした絵になっちゃった,あるいは ユダヤに乗っ取られてダビデの星に似たようなものにされちゃった,あるいは とうとうS学会が政権を握って○○大作先生の家紋になっちゃった, 等等の状況になったとしましょう.そうしたらkyusedaiさんは心を込めてその新国旗に服従の意思を示されますか?あるいはどれかはいやだというのがありますか?非礼になるのでいつも表面だけ従いますか?国旗は国旗だとして無心に従われますか? 上に続けます. それとももう一つ,状況設定が不適当で回答するにふさわしくないとお考えですか?
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kyusedai
at 2008-08-28 20:09
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>『校長につめより土下座を迫ったり』
こういう事実があればそれはやりすぎですが,『土下座を迫る』というような行為が本当にあったのですか? はい、日教組教師が児童を通じて土下座を迫ったと推察できる事件があったのです。
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kyusedai
at 2008-08-28 20:18
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>繰り返しになりますが,侵略の禊の終わっていない日の丸君が代に服従したくない心は尊重されるべきです.そのような日の丸に早くなって欲しいと思いませんか?kyusedaiさん.
日の丸・君が代に服従の意味が理解できません。どう服従させられるのでしょうか? 日本の国旗を変えることはそれなりの国民大多数の同意がない と不可能と思われます。大多数の同意の結果国旗が変えられたのなら国旗掲揚の場では敬意を私は示したいと思います。 >『国家による不当な人殺しの人数において中華人民共和国の方がナチスドイツより勝っているから』 これは一般的に共有されていることではないですね.いつの時代の話ですか? 中国共産党の創設から現在までの歴史を概観すれば十分わかることです。チベット等の侵略は今でも続いているし、その反省も見られません。あなたは新聞などはお読みになられませんか?
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papillon9999 at 2008-08-29 02:01
『日の丸君が代に服従』
服従とは,日の丸に未だにハーケンクロイツの影を見る人が,日の丸に敬意を強制・強要され,それに不本意ながらも従わされることです.その不本意性を生ぜしめる原因を取り除けば問題は解決です. 『中国共産党の創設から現在までの歴史を概観すれば十分わかること』 これは一般に共有されてはいません.しかも,旧日本国軍や現・旧米国軍,その他世界中の国が犯した殺戮人数をすべて比較考量しなければなりません.どのような資料がありますが.代表的なもので結構ですけど.したがって, 『新聞などはお読みになられませんか』 とあっても,新聞などでそのような情報がいつ得られますか? 『チベット侵略』 これも一つの主観的見方です.チベットに関する私の考え方は別に記事に書いています. とは書きましたが,私は別に五星紅旗の弁護をしたいわけではありません.その問題と日の丸君が代の不起立は全く関係のないことです.
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papillon9999 at 2008-08-29 02:19
それから,kyusedai さんは国旗が変わることは国民大多数が同意したことだから,『国旗掲揚の場では敬意を私は示したい』と仰るわけですね.分かりました.ご立派な見識だと思います.それについては心から尊重いたします.
私もそうするでしょう,ハーケンクロイツに相当するものがない限りは.いくら大作先生の家紋がいやだって言ったって,憲法に違反しない限りは嫌いでも仕方がありません.もちろん,憲法の宗教条項に違反していれば別ですが.単なる好き嫌いで,不起立のような職を賭けた闘いなど誰もしません. だけど,もしハーケンクロイツに相当するようなものを含む国旗があれば,それに対しては忌避する意思表示は尊重したいものです.他人に敬意を強要・強制しない慎みは必要です.忌避する人は,他人にも忌避するように迫っているわけではないです. 日の丸を引き摺り下ろそうとする暴力行為ではなく,『したくない』,という防衛行為なのです.これらを混同してはならないと思います.
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kyusedai
at 2008-08-29 14:56
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>服従とは,日の丸に未だにハーケンクロイツの影を見る人が,日の丸に敬意を強制・強要され,それに不本意ながらも従わされることです.その不本意性を生ぜしめる原因を取り除けば問題は解決です.
なるほど。 しかし、これはどこか卑猥・醜悪・差別的な物言いに私は感じます。 ある女性が若い頃、貧しくてやむなく風俗でバイトしながら苦学の末大学を卒業し、やっと晴れて一流企業に就職できたと思ったら、そこの上司の一人がかつての客であったらしく、やれ良い乳してたの声がすごかったのだのと彼女を蔑み、何十年も内密に身体を提供させたりするのとどこか似ています。
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papillon9999 at 2008-08-29 17:30
『卑猥・醜悪・差別的な物言いに私は感じます』
そのように感じられるのはあなたの自由です.誰もそれを改変するように迫ったりしません.しかし,ある強権で以って,その感じ方を変えるように強要したとすればどうですか?きっといやだろうと思います.それのひどくなったものを『精神的強姦』と表現した人がいたわけです.私はそれにはすぐ同意できました. 要するにそれは個人の感じ方,精神の矜持に他なりません.それを蹂躙することが問題となるのです.強権で強要したりせずに,互いに尊重すれば済むことです.強権で強要することは危険なのです.
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kyusedai
at 2008-08-29 23:43
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なるほど、とすれば、私のように感じる人々が、そのような卑猥な差別的行動を教育の場で示す事を止めようとしない反日の丸教師を教育の場から排除するように行政に願うこともまた誰からも束縛されることではないのです。
>要するにそれは個人の感じ方,精神の矜持に他なりません.それを蹂躙することが問題となるのです. 日の丸を卒業式等で掲揚・掲示し日の丸に敬意を示すことを我が国の公立学校の全ての教師に等しく求めることは個人の精神の蹂躙には当たりません。なぜなら、自国の国旗に敬意を示すことは世界共通のマナーであって、公立校でそれを教えることは正当なことだからです。 これは危険なことでも何でもありませんし、また個人の内心の自由を毀損することでもありません。なぜなら、日の丸を好きになるように強要しているからではないからです。卒業式等で国旗に対し敬意を示すというマナーを求めているのです。 したがって、個人の心情から国旗を忌諱する人々はそもそも公立校の教師にならなければ良いのにと思います。
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papillon9999 at 2008-08-30 10:01
そこでまたハーケンクロイツの話に戻ってしまうのです.そして日本を大事に思うからこそ不服従を貫いているのだ,ということも再び申し上げることになります.これが公立学校の教員資格に抵触することはまったくありません.
『反日の丸教師を教育の場から排除するように行政に願うこともまた誰からも束縛されることではない』 まさにそのとおりなのです.そして,そういう行為・信条を私は『隣組意識であって最も怖いものだ』と感じて書いたのがこの記事なのです. そういう素朴な庶民の俗情,『非礼を許さない』という正義感に基づくそういう行為,が戦前では付和雷同型の戦争遂行に通じたのではないか,というように私(など)は感じるわけです.なぜなら,お上の政策への批判が許されなくなる雰囲気が出来上がってしまうからです.それを非常に危険なことと感じるのです.この危険と感じる心性は一つの学習効果で出来上がったものと考えています. なぜあのような戦争を国民全部(ほぼ)が率先して賛美・遂行に走ったかです.蟻の一穴から堅固な堤防も崩れます.憲法はそれをよくわかっているので,宗教条項や思想・信条の条文を掲げました.
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papillon9999 at 2008-08-30 10:02
しかし,何が蟻の一穴かというのがその時その時ではなかなか分かりません.(それが分かれば庶民も素朴な俗情で反対するはずです).不服従はそれ(日の丸君が代の強権による服従強制)が一穴の可能性を持っているという一つの警告です.
その俗情はしかし,たとえ左翼政権ができても決して強権で押さえつけてはならないのは当然です.私も強権を以って止めさせるべきだ,と言ってはいません.庶民自ら,己の素朴な感情の危険性に気がついて,自らよく考えて欲しい,という訴え,お願い,のつもりです. 『あなたのその非礼だとして不起立を非難する心は,昔戦争賛美に走った心情の先駆けであるかもしれないのですよ』 ということです. これまた繰り返しですが,不起立は防衛行為であって会場乱入などの暴力行為ではないです.これは非礼に当たるとは思いません.Kyusedaiさんと見解を異にする所です.
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papillon9999 at 2008-08-30 10:02
『隣組が最も怖い』という意味について,説明を補充しておきます.
『反日の丸教師を教育の場から排除するように行政に願うこと』 まさにこれなのです.庶民のそういうお願いがなければ強権側としてもなかなか排除できることではないと思われます. しかし,庶民のそういうお願いがあちこちから集まればその垣根は越えやすくなることでしょう. 期せずして『隣組が最も怖い』という格好の例が得られました.
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kyusedai
at 2008-08-30 18:38
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あなたの捉え方がやっと解りました。
でもね、『反日の丸教師を教育の場から排除するように行政に願うこと』は戦争礼賛・賛美からではないですよ ^^; ここを間違って捉えるべきではありません。 あくまでも私の場合は舌足らずですが先に述べたとおりマナーに欠ける行為を指摘されても主張を通そうとする教師の行為に対して非難するわけです。 つまり、自己思想の不可侵を盾に正当な教育活動をあくまで忌避するのであれば社会は厳しく対処すべきと思うのです。 例えば、教師でありながら児童に学習させることをあまり良しとしない主義の教師が居て、授業時間の半分は児童の好きにほっとくという教師に対し、授業時間内はしっかり授業を行うように上司が注意しても、それは自己の思想に反するから出来ないとあくまで突っ張る教師がいたとすれば、やはりその教師に何らかのペナルティーを与えることは正当なことと私は思います。 もし、それが制度的に出来ないとすると社会は単に混乱し出すと私は思います。
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kyusedai
at 2008-08-30 18:38
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>『あなたのその非礼だとして不起立を非難する心は,昔戦争賛美に走った心情の先駆けであるかもしれないのですよ』
このような日の丸敬意者に対する猜疑は早とちりであり差別です。具体的な戦争礼賛・賛美があれば共に非難しましょう。 しかし、国土・国民を防衛するための最小限の行動はたとえ軍事行動であっても非難されるべき行動ではないですね。
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papillon9999 at 2008-08-31 00:15
かなりお互いの言いたいことが伝わりだしたようですね.違いがあるのはどこに何を見るかだと思います.
『マナーに欠ける行為を指摘されても主張を通そうとする教師の行為に対して非難』 不起立教師をこのように見る見方よりも,私(など)は,そのマナーなるものを決めたこと自体に疑問,ないし危険性を見るわけです. 決して, 『自己思想の不可侵を盾に正当な教育活動をあくまで忌避』しているというように感じなくて, 『お上の命令にも不当なものがある』というメッセージを重視するのです.単なる授業のやり方で,特殊なものに固執するはた迷惑な教師という問題ではなく,憲法レベルの問題,人権侵害を見てしまうのですね. 『日の丸敬意者に対する猜疑は早とちりであり差別』 これは少し誤解です.『日の丸敬意者』に対してではなく,『日の丸敬意を強要する人,排除を願う人』に対する批判だと思っていただきたいです.行政に対するお願いのようなものは,陳情者の意図を超えて単なるマナー違反の問題ではなくなってしまう,(思想統一の危険の問題につながる)とどうしても感じてしまうのです.
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papillon9999 at 2008-08-31 00:16
『具体的な戦争礼賛・賛美があれば共に非難しましょう』
これは大変に嬉しいお言葉です.ぜひよろしくお願いいたします. 『国土・国民を防衛するための最小限の行動はたとえ軍事行動であっても非難されるべき行動ではない』 これも一般的には異論はありません.
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kyusedai
at 2008-08-31 13:45
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>『日の丸敬意者に対する猜疑は早とちりであり差別』
これは少し誤解です.『日の丸敬意者』に対してではなく,『日の丸敬意を強要する人,排除を願う人』に対する批判だと思っていただきたいです.行政に対するお願いのようなものは,陳情者の意図を超えて単なるマナー違反の問題ではなくなってしまう,(思想統一の危険の問題につながる)とどうしても感じてしまうのです. ナチスドイツがユダヤ人に対しいわゆるホロコーストを実施したのも本をただせば身勝手な偏見があったためでした。 偏見は差別を生み社会を混乱させます。 具体的な証拠・顕在化された事実をもって批判することは正当な行為ですが、色眼鏡を掛けて批判することはやはり正当なことではありません。 このことはお互いに常に気をつけなければいけませんね。
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papillon9999 at 2008-08-31 14:31
『偏見は差別を生み社会を混乱させます。』
『このことはお互いに常に気をつけなければいけませんね。』 全くその通りと思います.当然ながら,それは我々の側にも言える事だと思い,私は常に自戒しているつもりなんですけどね.(なかなか難しいとは思います・・・) kyusedai さん,大変意義深い議論をしていただき深く感謝いたします.『どこに何を見るか』という所に存在する違いに関して,以前よりはお互いに理解が深まったのではないかと感じています. どうもありがとうございました.
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kyusedai
at 2008-09-01 21:03
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いいえいいえ、こちらこそ勝手にお邪魔してぶしつけな質問・意見を投げかけました。公開されたサイトですので思うところを書き込みした次第です。
私はある個人サイト(ブログと呼ぶのでしょうか)で同じように思うところを書き込みさせていただいているのですが、頭が悪いとか狂ってる。はてまたジジイとか靖国原理主義者・B層右翼等との評価のみ受けてきました。 ですが、あなたは一つの意見として受け止め、それに対する誠実な返答を下さいました。 今回のあなたの対応に心から感謝致します。 ありがとうございました。
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papillon9999 at 2008-09-02 20:05
kyusedaiさん,今出張先で,ようやくインターネットにつなげることができ,慌しく書き込んでいます.
kyusedaiさんが悪罵を投げつけられる経験をされることに対し,私は非常に怒りを感じています(投げつける側に対して). だって,kyusedaiさんのご意見は優しい両親や叔父叔母,従兄弟たちの意見と全く同じだからです.ホントに軍国主義賛美など毛頭ない,気の優しい庶民ばかりです.そういう人たちに悪罵を投げつけるなんて考えられません. 私としては,そんな所に悪罵を投げても何にもならない,逆効果だと信じています.ただ,話のできそうな相手に対しては,いろいろ話をしてはみるのですが. 誰彼かまわず,反対意見の持ち主に頭から論理を振りかざし押し付ける「サヨク」には本当に困ったもんだ,と思っています. 『理屈は分かったけどあんたは嫌い!』となることも多いかもしれません. ともかく過分のご挨拶誠にありがとうございました. |