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キリスト教は一神教か?
2008年 06月 06日
二元論の話をもう少し続けてみたい.今回のテーマは一神教対多神教.これは日本人論を考える時,あるいは東洋と西洋を対置して考える時,さらにはブッシュらのあきれた行動を分析しようとする時,などなど,多くの場合に多くの人が用いている『道具』である.
この道具はまあまあ,大体のところにおいて一応の機能を発揮しているようであるが,あまりにこの切り口ばかりが持て囃されると少し心配になってくる.これでいかにも分かったような気になるのがなんとなく気に入らないのである. この記事では,ホントに『西洋対日本』において,『一神教対多神教』という二項対立概念が存在しているのか,考えてみたい.ただし,私の不勉強が露わになって大変恥ずかしい思いをするかも知れないことは覚悟の上である. キリスト教は一神教か? キリスト教は一神教なのか?これこそが西欧人を理解することのキーワードだとほぼすべての人は思っている.ほぼすべての人は『そうだ!』と答えるだろう. しかし,ほんとにそうだろうか?かなり一神教に近いとは言えるかも知れないが,私はそれほど明確なものだとは思えないのである.その根拠とは?それを以下に書く. 1.イエス以外にも多くの崇拝対象がある 実は以前に記事を書いた時からキリスト教が一神教だと確信していたわけではなかった.その時から,なぜ聖母マリア崇拝とか,各地に聖人伝説が残されているのか,とか不思議に思っていたのだった. そう,イエス以外に,聖母マリア,聖ヨハネ,トリノの聖骸布(贋物だけど)があり,聖櫃伝説はインディージョーンズのテーマともなった. これらはどういうことを意味するのだろうか.最近,私は一神教であることに強い疑いを持つようになったのである.だって,一神教とは,本当はそういうものは絶対にあってはならないものと思うからだ. そう思ってWikiで『聖人』を調べてみた.すると,そこにはキリスト教側の『苦しい』言い訳が書いてあったのだ.曰く, ===== キリスト教では、崇敬・尊崇と崇拝は異なる意義付けをなされている。・・聖人を崇拝しているわけではなく、聖人をうやまうこと(崇敬)は拝むこと(崇拝)ではない。 ===== うーん,どうだろうか.非常に苦心していると私は思う. さらにもう一つ.有名なヨハネ伝の冒頭,なんともいえぬ荘厳さを湛えて次のように書かれている. === 初めに言葉があった 言葉は神とともにあった 言葉は神であった === これは三位一体の教理の原点とされるが,私は『言葉=イエス』であり,その意味は『イエスが言葉でこの世に伝えに来たこと』と思っている.だから,三位一体と考えてもよい.だけど,このように,一つの神が3つの姿を持つ,ということ自体も,一神教の厳格な掟に違反しているように思えてならないのだ. 2.キーワードは『偶像崇拝の禁止』【注3】 そこで,一神教の『根本教理』を思い出そう.私はずっと以前の記事(前掲),『宗教と人間の脳との関係(3) 一神教の起源』 で,なぜ一神教では『偶像崇拝』が厳格に禁止されるのかを考察した.そして, 『その人の脳に余計なイメージが湧き出てくるから=内なる神を呼び覚ますから』という解答を与えたのである. そう,だから一神教では『絶対に』偶像は禁止されるべきものである.しかし,キリスト教を見よ.なんとあちこちにキリスト像はおろか,聖母マリア像,それらの絵画,が夥しくあることだろう! それらはどういう働きをもたらすか.見る人の脳にはいろんな違ったイメージが植えつけられていくのである.こういうことが一神教の崩壊の始まりだと私は思う.だから,一神教では厳格に禁止するはずのものである. 偶像崇拝の禁止を厳密に守っているのはユダヤ教とイスラム教のみであるように思われる.つまり,キリスト教は『一神教の資格テストに不合格』だと思う. どうしてキリスト教はこのように『偶像に寛大』なのだろうか.それは後で考える.ここではユダヤ教のテストもしておこう.ユダヤ教の聖典,『旧約聖書』にも,何人かの『偉大な預言者』が登場する.しかし,彼らは完全なるメッセンジャーであって,崇拝の対象にはなっていない.モーゼやヨブやアブラハムのような義人も,欠点のある人間として描かれている.だから,ユダヤ教は神=エホバ(本当はヤハウェ)以外には崇拝する対象が存在せず,無論偶像も完璧に無い.十分合格だ.【注2】 イスラム教はどうか.これもほぼ同じだ.(よく知らないくせによく言うよ!(^o^)/~~~~)ただ,完全な想像で言えば,アッラーとマホメットのお二方が崇拝の対象になっているような気がするのだけど,どうなんだろうか?もしそうであれば,『準一神教』といえるかも知れない.でも単なる想像ですよ.よく知らないから. 3.なぜ旧約聖書が必要か このように見てくると,一神教の原点,『旧約聖書』をなぜキリスト教は経典から外していないのだろうか,という疑問が湧いてくる.かといって,信者たちは旧約聖書をさほど勉強するわけでもないのだ.私はこの疑問には,次のように解答する.それは,『イエスの出現を旧約聖書が預言したことになっている』からだと思う.イエスの正当性を旧約聖書の『神=エホバ』が完璧に保証しているのである.だから,キリスト教は旧約聖書を捨てられないのだ. 4.多神教の芽 キリスト教は多神教の要素も濃い,という結論にしたいのだが,ではどうしてそのようなものになったのだろうか.それはやはり,初めはギリシャの多神教の影響,それからなによりも多数の民族集団に行き渡ったからだと思う.例えばケルト族,ゲルマン族,セム族,(あれなかなか次が出て来ないが・・(^o^)/~~~~)とにかく多数の民族がそれぞれの信仰を持ち,多数の神を持っていたはずなのである.宗教の起源は『内なる神』だから,本来は神は多数いるのが自然,つまり人類にとっては『多神教』が本来的な姿なのだ【注1】. そこへキリスト教がどかどかと踏み込んでいっても,やはり融合しなければやっていけない.そのために,『イエスキリストという神』を一つに戴きながらも,やはり他の崇拝対象も形を変えて残って行ったのではないだろうか.それを許す(というより求めると言ったほうがいいかな)マインド,下地があったというわけである. 5.ユダヤ教は特殊.それはなぜか. 以上のように考えてきて,はたと思い至ったのが,それじゃあ『ユダヤ教は特殊なんだ!』という発見であった.逆に言えば,どうしてユダヤ教のみ(イスラムも含めてよいが)特殊でいることができたか,ということである.それは『民族規模が小さいから』だと思う(要するに単一民族で人口も多くないという意味).つまり,キリスト教はあまりにも多民族を取り込みすぎたのであろう.(でも,イスラム教にはあてはまらないのかな?民族学的にはよく知らないけれども,そんなに多数の民族が含まれていたのだろうか?) 別の見方からすると,ユダヤ教は祖霊信仰にとても近いのではないだろうか.ユダヤ民族の定義は昔ははっきりしていたはずだし.でも最後の(5)はそれほど自信はない. 6.結論 ということで一応の結論として,ここでは 『キリスト教は多神教の色も濃い』, 『人類にとっては西洋・東洋を問わず,多神教が本来の姿である』 『純然たる一神教であるユダヤ教は特殊である』 という3つを掲げておく. この記事は,最初は 『一神教対多神教』 というタイトルで書き始めた.そして,日本における多神教はホントに多神教か?という考察まで進むつもりだったのだが,長くなりすぎたのでいったんここで終わる.続きはまたいずれ. 【注1】 だから,『日本だけが多神教で特殊』,という切り口・道具は非常に間違った結論に導くおそれがあるかもしれないのだ. 本当はこのこともこの記事で書くつもりだったが,長くなりすぎたので他日を期したい. 【注2】 これまた突然気がついたが,ユダヤには『文学以外の芸術がない!』(のではなかろうか?).特に美術系統が!これは偶像禁止とひょっとしたら大いに関係があるかも!大発見だ! 【注3】 この『掟』は,たとえ神自身を描いた偶像であっても,それを作っては決してならないのである.その理由は本文で示したとおり.
by papillon9999
| 2008-06-06 00:07
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Comments(35)
アメリカ deep south の聖書原理主義者たちは聖母マリア崇拝を行っているのだろうか?ご存知の方は教えてください.
でも多分,彼らが行く教会にもキリストの十字架像が飾ってあるでしょうね. それと,十字架そのもの,これも偶像に当たります.こういうものがある限りは原理主義者といえども多神教の色が十分に染みている,ということでできましょう. でも『聖書そのもの』を崇拝する『一神教』と見ることもできるかもしれません. カルト集団の一つ,『エホバの証人』はもちろん厳格な一神教です. 日本だってかのS学会は限りなく一神教に近いじゃないですか.それも一民間人(僧侶でもない!)が崇拝の対象ですよ.怖い!
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創価学会系の出版社 第三文明社(名前からして怖い)の本を何冊か読んだんですが、ホントに怖いですよ。
その中では日蓮大商人は刺身のツマで、池田大先生が唯一神です。 悪僧なんてのはホメ言葉みたいで極悪とか、鬼畜とか地獄がひっきりなしに出てくる。 しかも恐ろしいのは、口汚くののしりながら「言葉」の最期に(笑い)となっていて発言者の品性や道徳が透けて見えて寒気がする。 そういえばルターも宗教改革で有名だが悪魔とか地獄とか何遍も言っている。逆にそれ以前のカトリックは悪魔や魔女の話は迷信として批判していた。 実は、宿主の日蓮正宗の教義では、驚いた事に仏陀は仏ではないんですよ、日蓮だけが仏で、一神教に近い ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
papillonさん。完全なる一神教を考えてみて下さい。
如何ですか。? 完全な一神教は、論理矛盾で、絶対に現実社会には存在できないはずです。 有るとしたら、世界も人間も何も無いところに「神」だけが一つ有る状態だけが完全なる一神教世界ですよ。 現実問題としては「一神教とは」常に一神教を目指している「宗教」と解釈すべきでしょう。 しかし理想と現実は違っていて、本来一つであるべき神の摂理は、実は幾つ存在する。 だから常に異端審問や派閥の分裂、抗争、破門なんかが起こる。 今ある一神教で、悪魔なんかと言った瞬間に一神教ではなく善悪二元論ですよ。 ブッシュ政権の原理主義なんかはこの類いです。 悪魔や地獄や死や恐怖が無くて、神と天国と愛と平安だけの社会、其れが一神教社会です。 ただ此れだと誰も教会(教団)に金を払わない。 いや逆か。?そんな社会を教団が、もしも創ってくれたら、私も無神論を投げ捨てて教会でも何にでもお金ぐらい払います。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
逝きし世さん どうもお久しぶりです.コメントありがとうございます.
『完全な一神教は、論理矛盾で、絶対に現実社会には存在できないはず』 とは思いませんが,一神教維持の為にものすごいコストやエネルギーが必要なはずです. 恐らく,一神教対多神教 という切り口ではだめでしょうね.今新しい切り口を考えています. それにしてもS学会は恐怖です.知らないうちに,国やいろんな機関,会社等の中枢に入り込んでいるかもしれないと思うとゾッとします.おお・・・
一度カソリックのクリスマス礼拝に参加したことがあるのですが,古い宗教という印象でした.これがキリスト教?と思ってしまいました(気を悪くする人がいたらごめんなさい).
カソリックでは今日の糧は神がめぐんでくれるので,だからアイルランドでは乞食は公認なのだと司馬遼太郎が書いていました.都市の商工業の発達とともに「働かざるもの食うべからず」という価値観が広まったのでしょう.だからプロテスタントは近代の都市型の宗教,カソリックは中世の田舎型の宗教,と理解しています. プロテスタントは偶像崇拝を禁じているので,聖マリア像があるのはカソリックでしょう. 米国の基礎は清教徒をはじめとするプロテスタントなので,カソリックの盛んな孤立集落などがあれば別ですが,ふつう聖マリア像はないと思います. >文学以外の芸術はない あげ足とりですが... 私はイスラエル国は諸悪の根源だと考えていますが,口惜しいことにユダヤ人は素晴らしい音楽をもっています.
創価学会の法曹界特に検察への進出は意欲的で公明党前委員長は検事出身で、現役検事時代には創価関連の疑惑事件に関係しています。
日本では本来の一神教(キリスト、イスラム)は1%以下の弱小集団で政治的な影響力は皆無で問題にならない。 しかし一神教モドキは得票率10%で政府与党の有力な団体。恐ろしい話です。 『一神教対多神教』の括りは、間違ってはいないと思います。
多神教では悪神や荒ぶる神間違いを犯す神の存在は当たり前ですが、一神教では完全な善でなければならない。
多神教では、神の力にも限界が有りますが、一神教では万能で能力は無限大で、しかも無謬です。 だから、多神教と違って神が一つでも間に合う。一神教の神は完全な善で、万能で無限で無謬です。 だから万能で無謬の神が創ったはずの今の世界や人間も完全な善で無謬のはすです。 すべてのものは神が創った。(一神教ではそうなっている) それなら、完全な万能力を持った無謬の神が、飢餓や病気や死や戦争も創ったわけです。(だから悪い部分は、悪魔とか人間の罪とカを主張する) それなら、神以外の創った部分が有る事を認めなければならなくなる。(二元論に陥る) 一神教の教義が正しいなら、すべてもものは神の創造物です。それなら製造者責任が発生する。 製造物責任法(PL法)を参照してください。どんな無責任な企業でも自分の製造物には責任を取ります。 当然、神が万物の創造主を主張するなら、当然な事に製造主として、欠陥品を創って広く世に出した責任が追求されるのは当然です。
皆さん,コメントありがとうございます.大変参考になります.
LadyBirdさん,どうも. 『プロテスタントはマリア像はないのが普通』 そうですか.やはり聖書の原点に戻ろうとしたのですね.それが今の聖書原理主義のはるかなる源流なのでしょうね. 『ユダヤ音楽』 実は音楽に関しては,『詩篇』に「竪琴をもって神をたたえる」なんてありますので,当然あるのだと思うのですが,でも悔しがるほど素晴らしい音楽があるんですか!それは知りませんでした.大変参考になりました. やはり,カソリックは土着信仰と融合して行った部分がかなりありますね.それを清教徒は嫌ったと言うことでしょう.するとカソリック国とプロテスタント国とはマインドが一神教と多神教ぐらい離れているかも知れないと言えますよね.
前の委員長と言うと○崎与五郎さんですな.いやあ,怖いものです.
彼らの恣意的判断,法律より学会の論理や利害が優先する,そういうことでこの国を決められたらホントに恐ろしい.そういう力を持ちつつある,ということですね. この恐怖感はかつて超保守派が『アカ』に対して抱いた恐怖心と似てるのでしょうか?とすれば,必要以上に怖がるのもトンデモになっていきそうでそれも怖いなぁ・・ 『絶対神の持つジレンマ』というのは当然あって,聖書系のカルトを含めたすべての教団は,そのジレンマの解消教義に苦心しています. 例えばエホバでは,サタンの跳梁跋扈を許しておくのは人間を試しているからだ,ということになります.それでもエホバを信じておれるか,ヨブの話とまったく同じことです. 神は人間に自分の権威を認めてもらいたくて仕方がないのです.それが不思議でたまりません. 私はいろんな宗教を,一つの『宗教という言葉』で括ったらいけないかもしれない,と考え始めています.
『超保守派が『アカ』に対して抱いた恐怖心』は当時のキリスト教会がガリレオに対して感じた恐怖と同じものです。(創価に対する恐怖心は、オウムや統一協会やアメリカの福音派に対する恐怖と同じ性質のもので、恐怖を感じない方が異常です)
自分が動かないと信じているモノが動いているかも知れない恐怖。 これは絶対に怖いと思います。 私が何回も批判していた内田教授ですが、瀬戸智子の枕草子2008.05.27『マルクスがブームらしい』の中で内田氏のブログ記事を紹介しています。 「マルクスが「プチ・ブーム」らしい。」と言う書き出しの『甦るマルクス』http://blog.tatsuru.com/2008/05/23_1649.php 一読をお勧めします。 >「私たちが今生きているこの社会は・・始まりがあった以上、いずれ終わりが来る。」という考え方である。 こういう考え方をつねづねしていると、今ある「このような社会」はいつ、どんなかたちで「それとは違う社会」になるのかということが気になるようになる。 そういうことをいつも気にしている人間は、「今ある社会がこれからもずっと続く」と思っている人間よりも、ほんとうに社会が変動期に入ったときに慌てない確率が高い。
『超保守派が『アカ』に対して抱いた恐怖心』
違いがなんとなく分かってきました.世の中がひっくり返る恐怖ですね.創価学会は得体の知れぬウィルスやエイリアンが知らないうちに浸透している恐怖.確かに違う(^o^)/ ところで,内田さんの文章.懐かしいですが相変わらずの調子ですね.いかにも分かった気にさせてくれる.ところが,私はずっと以前からの保守政権の世が変わって欲しい,どのように変わってくれるだろうか,といつも考えていましたが,今の最悪の新自由主義社会への変化は何の防御も取ることができず,今になって慌てています. だから,いかにも当たっているかのごとく思うのは錯角似すぎないと思います.まあ,厳密な論文のレベルではなく雑談でしょう. 内田さんはマルクスを毛嫌いしているようには見えませんが,これからさらにマルクス礼賛に変わっていくのではないかな?時代を常に先取りしていく(^o^)/ まあ,これは悪い方向ではないでしょうが. ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
![]()
>内田さんの文章・・・相変わらずの調子・・・いかにも分かった気にさせてくれる
言えてます。何と言っても口当たりが良い。ある程度以下の人は信者になるはずです。かつ君もファンだったが、ブログ常連のイカフライ氏がコメント欄で暴れていましたよ。今回の文章は別に取り立てて文句を付ける程でもないのに、此方も相変わらずです。 >神は人間に自分の権威を認めてもらいたくて仕方がない・・それが不思議 旧約聖書の神は、ホントに不思議です。 あれ、本当に神でしょうか。? 実は悪魔が神の真似事をしている可能性は如何でしょうか。? 神を偽装している悪党の話。神様の性格をもう一度思い出してください。 親に子供を殺すように命令する極悪非道。街を焼き払ったり民族を全滅させたり悪逆非道の限りを尽くす。 しかも裏切った者には容赦しない執念深さや、嫉妬深さ。小さな過ちも見逃さない寛容の精神の無さ、現代なら007の悪の組織のボスのキャラクターそっくり。 旧約聖書の神は自分で自分を神だと名乗っているが本当でしょうか。? 旧約聖書の神の実体は、実は悪の化身悪魔の偽装ではないでしょうか。? ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
『旧約聖書の神の実体は、実は悪の化身悪魔の偽装?』
実は私も『唯一神のアリバイ崩し』という記事で,ホントの唯一神だったらそういう言葉が出てくるか?という『刑事コロンボ』のような推理をしたことがあります.残念ながら皆さんには記事の意味が伝わらないんだけど. その時は『唯一』という所にアリバイ不成立を見ていたのですが,そもそも悪魔が言っていたとすればもっとうまく説明できますね. ![]()
『唯一神のアリバイ崩し』は刑事コロンボ(papillonさん)が、ギリギリまで犯人(神)を追い込んだが、最期の最期で犯人(神)を取り逃がした感じでしたよ。
『自分だけが唯一だ』は自分以外の神の存在を、神自身が認めた上での発言と解釈できる。 何故なら、神が最初から一つなら、神であれ誰であれ、『神は一つ』何て言う必要がない。 「太陽は一つ」なんて、みんなが知っている事を言う人は誰もいない。 しかし自称神は何度も『自分だけが神』と主張する。 そういえば、福田首相も所信表明演説で、何十回と『国民の為』を繰り返し何度も言っていた。 自称神の、何度も繰り返す『唯一神』発言も、福田首相の何度も繰り返した『国民の為』発言も、どちらも、真実である可能性よりも、現在は違うが『私は、その様で有りたい』という希望、願望、理想の類いでしょう。 私のような疑り深い性格なら、 自称神や福田首相が、真実はその反対だが『国民(信者)その様に信じさせたい』というペテン発言と捉える。 『アホな信者(国民)に判るはずが無い』『嘘でも100言えば真実になる』などと考える、ナチのゲッペルス宣伝相の考えに近い悪質な宣伝広報の類いです。 ![]()
旧約聖書の、「唯一神」は「一人」なのか。?????
「唯一神」以前に「自称神」が一人だと考えるのは間違っているかも知れません。 旧約聖書の神は、ホントに不思議です。 神様の性格をもう一度思い出してください。 残忍で冷酷非常でありながら愛を説く。強欲でありながら無欲を要求する。「無闇に神の名を言うな」と欝の引きこもり状態のようで自己顕示欲は無限大。 相反する正反対の性格を同時に一人の「人格神」が持っています。 彼(自称神)は自分が唯一神だと言うが、明らかに違う。 しかも彼(自称唯一神)は、自分を、一人の人格(神格?)だとみんなに思わせていますが、此れも怪しい。 旧約聖書のゴット(神)ヤハゥエイは単数になっているが本当はゴットs(複数の神々)では無いのか。 そう考える方が、ゴットが多重人格の性格破綻者と見るよりも、合理的判断ではないだろうか。? 本当は何人もいたユダヤ教の先祖神達を、昔に無理やり一人に統一した為に、今では神が多重人格の性格異常者のように見えるだけではないだろうか。?
『本当は何人もいたユダヤ教の先祖神達』
私が『祖霊信仰』に近いのではないか,と思ったのと通じてきますね. まあ,学問的に言うと,P資料とQ資料というのがあって,人間を近づけぬ荘厳・厳粛な側面と,自分が作った人間達に無限の愛を注ぐ親しみやすい神の側面とが同居しています.恐らくいろんな時代の聖職者達が寄ってたかって造り上げるとこうなるのでしょう. その大元は先祖神の思い出かもしれません. ![]()
『偶像崇拝の禁止』は基督教でも東欧の東方正教会では禁止しているようです。
正教での崇拝対象はマリア像やキリスト像のような偶像ではなくイコン(仏教の曼荼羅に酷似)ですね。 私は、『偶像崇拝の禁止の戒律』は一神教のキーワードでは無く、一神教的な宗教が、他宗派を攻撃する時の攻撃材料(武器)ではないか。?と思っています。 心の中に隠れている内心(信心する心)は判らないが、偶像は攻撃し易い。 日本の排他的一神教カルトの創価学会の場合でも、仏教他宗派の仏像を拝む行為を、偶像崇拝として攻撃しています。 そして創価学会が拝む御本尊は、題目が書いてあるだけの曼荼羅(の複写)です。 仏像は仏教本来のものではなくヘレニズム文化から生まれた外来の風習ですね。 私の一神教の定義は『神が一つ』であるか如何かではなく、『一つの物差し』で総ての判断するような教義を持つ宗教の事を指しています。 この定義なら創価学会もアメリカの福音派も統一協会も、ものみの塔も、すべて一神教です。
『一つの物差し』というのは有力な考え方だと思います.S学会は曼荼羅ですか.仏像や位牌は捨てるよう強要されますからね.
S学会とものみの塔でどちらが良いか,と言われれば後者を薦めます(^o^)/ その理由はお金です.学会のほうは割り当てがものすごいらしいじゃないですか?幸いなことに後者は『気持ち』でいいのです.額がわからないように封筒を廻すようです.それでも多額を入れる人も無論いますが,貧乏な私の妻はホントに気持ちだけです.それでも痛い出費には変わりないですが(^o^)/学会でなくて良かった,と思う今日この頃です.
御無沙汰しています。
さて、私の趣味の神話学、宗教学のお話なので、食い付かせていただきます。ブログのもと記事の方ですが、そこでご指摘の物は、基本的にロマン・カソリックの信仰です。一部の例外を除いて、プロテスタントではマリア信仰はないですし、また「聖者」や「福者」を決めるのはローマ教皇庁のやることで、プロテスタントとは無縁です(厳密には)。 特に、アメリカでは、植民、開拓の歴史から、初期の植民集団に聖職者がいたとは限らず、その結果、「会衆主義」という、合議制で宗教的見解を出すという手段もとられました。そのため、彼らがよりどころにしたのが聖書であって、現在、アメリカの教会の8割が「福音」(聖書の言葉)主義を多かれ少なかれ標榜しているのには、そのような歴史も背景にあります。 そのため、プロテスタントは、西欧において自ら近代合理主義を獲得し、神学と科学の峻別を行った国々に対して、アメリカは、ひたすら聖書に。特に教育レベルが低く、所得も低い階層は、聖書根本主義(キリスト教原理主義)に陥っています。 (続く)
(承前)
ブッシュを支持している、宗教右派と呼ばれる階層は、この階層と重なります。だから、ブッシュ自身も狂信的なボーン・アゲイン思想のプロテスタント信者であり、イスラム教を敵視するのです。 その他、アメリカのプロテスタントには、初代教皇と言われる、ペテロ以降に教皇はいないという、「教皇空位説」や、旧約聖書と新約聖書を別として、ユダヤ教とキリスト教の連続性を否定する会派もあります。 まぁ、そう言えばアメリカでは悪魔崇拝も含めて、星の数ほどキリスト教会があるのですが。 話がそれました。キリスト教が一神教であるか否か?と言われれば、私は上記のすべてを含めて、「ノー」と言います。 ただ、それはヘブライ教も同じです。 彼らは唯一絶対神をあがめると言いますが、一方で、サタンの誘惑による堕落を恐れます。これは善悪二元論に限りなく近いです。 (続く)
(承前)
ヘブライ教では、昔、アザゼルという存在を、ある意味あがめていました。現在は悪魔に分類されるアザゼルですが、昔は、神託を得るために荒野に2頭のヤギを放ち、その一方をアザゼルと呼んでいたのです。 やはり、マニ教、ゾロアスター教などの善悪二元論型宗教の変形とみるのが正しいと思います。 別の説では、モーゼがエジプトから出ていくときに、当時エジプトで流行した太陽神のみをあがめる一神教の思想を取り込んだとも言われますが、エジプトの宗教の多様性や、モーゼの実在は無かったという歴史上の事実からすれば、この説は正しいかどうかわかりません。 聖者や、聖遺物、東方正教会では「イコン」を崇敬するということから、キリスト教は多神教だ、っというのは、客観的分析としてはあり得ますが、キリスト教信者たちからは、反発されるでしょうね。 ただ、私が述べたように、「限りなく善悪二神教に近い」とは言えると思います。紀元前後のころの当時の中東付近の宗教の盛衰と、旧約聖書をよく読むと、そこら辺が見えてきます。 (続く)
(承前)
あと、無謬の絶対神が生み出した世界に、なぜ悪や病などの不幸がはびこり、人間もまた不完全なのはなぜか?という問いの答えはいくつかありますが、一番簡単なのは、人間は神の言葉に従わず、楽園を追放された罪ある存在であるということと、その人間に、神は常に不幸という名の試練を与え、人間の信仰を試しているという考え方です。 キリスト教の悪は、サタンの誘惑により、真実の神の教えから逸脱することであり、世俗的な悪は、神の試練だと考えるのです。 そこら辺は、単純な善悪二元論とは違うかもしれません。 (終わり)
眠り猫さん,どうも詳細なコメントありがとう.大変参考になります.整理すると
1.プロテスタントは聖書回帰ですが,西欧とアメリカで異なる道を歩んだ.西欧は科学と折り合いを着けたが,アメリカは原理主義となった. 2.キリスト教は一神教とは言えないが,ヘブライ教でも一神教というよりは善悪二元論だ. というのが骨子ですね. 1は同意します.だから,アメリカでは聖書由来の新興カルトが雨後の筍のごとく現れましたね. 2も特に反論はありません.鏡が必要ということですね.だから,一神教≒善悪二元論と言えるかもしれません. ただ,最後はアダムが罪を犯す前に既にサタンは存在していましたから,不幸が蔓延るのはアダムのせいだとは言いがたいでしょうか? 神が人間に試練を与えることにしたのは仰るとおりアダムの罪によると思います.
どうも。最後に補足です。実は様々な解釈があるのですが、「サタン」という言葉は、ヘブライ語で「告発者」という意味で、今、聖書を語るときに言われるような、堕落への誘惑者、とは違うという考えもあります。
いずれにしろ、神は完全な調和である、エデンの園の中で人間を生かしていたのですが、イブが知恵の木の実を食べることを蛇(サタン)からそそのかされ、アダムはそれを止めなかった。そして2人して、禁断の木の実を食べた。その神の指示への背信が人間の原罪であり、常に神からの試練を受けている。これがヘブライ教、キリスト教の基本です。 とすると、サタンも神の被造物であるはずで、後の神学で、サタンは堕落した天使とされますが、それはかなり時代を下ります。 実は、私はここに大いなる異論を持っているのですが、それは自分の裏ブログででもやります。では。 ![]()
>恐らく,一神教対多神教 という切り口ではだめでしょうね.
「オカルトに興味なし」との人も多いでしょうから、独善性や排他性といった反社会性との関係性から「一神教対多神教」を論じればよいと思います。 もっとも、宗教に限らず極左セクトなんかも排他的なので、あれは何なのか?という話にもなるかと思いますが。 >今新しい切り口を考えています. 私は開祖の哲学的な側面をいかに踏襲しているかで各宗教を見ています。 たとえば、もし、キリストが現代にいたら、戦争や死刑制度や「新自由主義」経済なるものを支持するのか?というふうに考えたりします。 結局、宗教信者というのは、開祖の哲学や社会思想はどうでもよく、「ご利益」があるのなら悪魔でも崇拝するということだと思います。 哲学や社会思想を伝えるにおいて「宗教」という手法をとるのは失敗だと言わざるを得ないでしょう。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Runnerさん,いろいろお考えを示してください.参考になります.ありがとう.
今は,宗教という一つの言葉で表わせるのか,ということを考えていますけどね.やはり慰めのための死生観は人間には必要でしょうからね.
匿名さま 私はそれほど悲観はしていません.ご安心ください.
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