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随想や意見,俳句(もどき)
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『水伝の道徳』(3)宗教もどき
2008年 05月 24日
このシリーズ記事は(2)で終わったつもりだったが,戴いたコメント(カギも含めて)をみて,改めて強調したほうが良いと考えて,至急,(3)を追加することにした.
一部の人たちにとって,『水伝の道徳』というのは一種の信仰として受け入れられている.いや,さすがに水伝そのものは科学的におかしい,とは認めていても,それが持つ『素晴らしい物語』【注1】の部分がどうしても捨て切れずに,それが『信仰』と化してしまった,というのが正確だろう. 水伝の道徳批判への『抵抗感・違和感』のうち,レイヤーの3と4はこの『信仰への攻撃』と受け止めて生じた反応であると見られる. この記事ではこれまでの社会的行為への批判,ということから離れて,『個人の信仰』としての『水伝の道徳』を考える.(批判ではないので念のため) 信仰と化したことを少し丁寧に追ってみる.『水伝の道徳』の特徴は,それが宗教として伝わったものではないのに,個人が『信仰』の問題に帰着させたことである.いや,初めは『科学的な根拠』を持った普遍性のある『素晴らしい物語』として受け止めたのだが,それが『科学的に批判』される段階に及んで初めて『信仰』と化したのだ,と言える. 批判に遭遇して真っ先に出てきた反応が,その『”素晴らしい物語”を捨てたくない』,という強い動機であり,いろいろな抵抗感はそのための(苦しい)言い訳にほかならないのであった. 私は何度も繰り返すが,この『信仰してしまった』個人を批判してはいない.それを社会的な行為とすることを批判しているのである.もし宗教として伝わったのであれば批判の対象ではない.しかしその場合,道徳の教科書に使うようなことは憲法違反で許されない.特定の宗教の教理を教えることになるからである. 前の記事のコメント欄で,『批判するには「科学(唯物論)」と「スピリッツ(非唯物論)」の融合が必要なのではないか』という意見を頂戴した. このコメントの根源には『唯物論』と『観念論』の二項対立概念があり,その対立がある限りは『水伝の道徳』の批判に対しての信者の理解も得られにくいのではないか,という主張である.この主張も『素晴らしい物語』を捨てたくない言い訳に感じられるのであるが,二つの点でおかしい. 一つは,科学と精神は対立概念ではない,あるいは,唯物論は非物質的なものを否定しているのでもない,ことである.なぜなら,科学的議論をなす主体の作用や論理そのものは物質ではないからであり,唯物論は非物質的なものに支えられているからである.これについては次の記事を立ち上げて考えるけれども,要するに対立概念ではなく守備範囲が違う,のである.すると,融合する・しない,とはなじまないことがわかる. 言い換えると,個人の『信仰の領域』にあるものを『科学的に粉砕』することはできないし,批判とはそうしようとする試みでもない.その社会的な(悪)影響において批判されるのである. 二つ目は,批判は『信者の理解を得る』ために行っているのではないことである.『眼を覚ましなさい』と言ってるのではなく,何度も繰り返すように,プロモートという『社会的行為』に対する批判であり,個人の信仰への批判ではない.ただし,個人の信仰の基盤を揺るがす効果は言外に期待しているのであるが,それを受け入れるかどうかはその個人の自由である. ここに格好の例がある.創造説と進化論の対立だ.ご存知のように,聖書の記述どおりと称して,『神による創造』を信じる人たちが存在する.この人たちの信仰が個人の内部にとどまる限りは何の問題もない(ただし社会的な話としてである.パピヨン的には自分の子供や親が信じるとすれば干渉したくなるけど(^o^)/) ところが,この人たちが『学校で進化論を教えるな』,『創造説を子供に教えよ』,『黒人は白人より劣っている者として神は創造されたことを認めよ』,などといった『社会的行動』を行うとすればそれは強く批判されなければならない. そして,進化論の授業はこの人たちの信仰を侵害する,といって進化論の授業をやめよ,と言っていいだろうか?水伝の道徳批判への抵抗感・違和感はこのような主張になっていることに気がついて欲しいのである.結果的に個人の信仰に干渉することになるかもしれないが,その目的は個人をグシャグシャニすることではない.単に事実を提供するだけなのだ. 創造説信仰者はどうすべきなのか.進化論は個人的には無視すれば良い.あるいは進化論を受け入れて調整しても良い.その人の自由だ.ただし,創造説を掲げて社会的行動を始めると,社会的に批判にさらされるだろう.それと闘う覚悟であれば,その選択も可能である. 信仰とはその根拠なるものが普遍的ではない.それが信仰の本質である.普遍的な根拠があればそれは科学だからだ.つまり,信仰は思い込みに他ならない.従って,その思い込みの根拠は外から(科学などから)常に脅かされる危険に常にさらされている.それは信仰を選択した際のリスクである. そもそも,たくさんの宗教【注2】が,俺が正しい,いや俺の方が正しい,と言い合っているのだから,少なくとも一つ以外は全部間違っていることになる.しかし,宗教の本質は『信じたいものを信じれば良い』のであって,『どれが正しいか』を決めたら成り立たなくなってしまう. しばしば,人間は自分の信仰していた宗教が如何におかしかったか,ということに気がついたときに,人間性がグシャグシャになる.それでも人はそれから立ち直って生きていかねばならない.また人間はそれができるのだと信じる. ゆえに,人の信仰の基盤を揺るがす恐れがあっても,社会的な行動への批判をそれで止めるわけにはいかないのである.【注3】 【注1】 表面的に美しい『素晴らしい物語』に感動するすることには常に警戒心を抱いていたほうが良い.たとえば,谷村新司の『群青』.表面的な美しい『青』の陰に『汚い死体』,『血みどろの汚物』などが隠されている.このような美しい物語は大変危険である.私は決して群青を歌わない. 【注2】 私の宗教へのスタンスを次のように書いた. ============= 宗教を頼りにしなければ生きていけない人々もいる,という考えは私の感性の中に埋まっています.だから,人類は宗教と共存していくはずのものであり,信教の自由は最大限,保障されなければならないと思っています. ============= 【注3】 私の回答の最後の部分. ============= ねじ回しをナイフの代わりに人を突き刺すことに使ったとしたら,そういう風に使った人が愚かで許されないということであって,ねじ回しの責任ではありません.ねじ回しへの非難は筋違いというものです. =============
by papillon9999
| 2008-05-24 11:55
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Comments(3)
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三輪耀山氏のこの記事は良いですね。
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-607.html 国際的グループに対する違和感・警戒、国民の利害とは遊離して活動するグループ(多国籍企業など)への違和感・警戒が書いてあります。 ネトウヨが外翼である清和会を応援している事例についてです。 なぜ右翼が外翼を応援するのか?。右翼は内翼(国内重視)あるいは過剰内翼というイメージがありますが、このイメージは誤りだと考えています。 もともと欧州の特権階級や王族は共同体(村落・部族)から遊離した存在です。 右翼思想の源流は特権階級擁護で、共同体から遊離した存在を擁護する思想です。もともとは右翼思想は「外翼思想」だったわけです。 右翼が部分的にでも内翼化したのは、近代になって国民国家が成立した後であり、清和会などの外翼的な右翼は先祖返りだともいえます。
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水伝騒動において、「水伝信望者がどこにもいない」。
左派内部に思想上の対立があると考えています。内翼(リベラル右派や極左、混成集合) vs 外翼(私の言うリベラル左派)の対立です。思想上の違いが大きくて、将来左派は分裂すると考えていたので、今回の騒動は案の上のわけです。(この思想の違いに比較すれば、左派と右派の違いのほうが小さい) 右派の中で評判の良いグループ(抵抗勢力)が「内翼」で、右派の中で評判の悪いグループ(清和会やネトウヨ)が「外翼」なので、リベラル左派(左派の外翼)は立場的に困った状態にあり、それで「自分たち外翼は「科学的」で、自分の敵である「内翼」は非科学的だ」と宣伝しているのだと考えています。 リベラル左派は、科学的でも何でもないですが、敵を非科学的だと印象操作するためシャドーボクシングしているのでしょう。 とにかく、水伝信望者はどこにもいません。 左派内部の問題に目を瞑るため、解同に罪を着せている人もいます。解同かもしれませんが、それはどうでもいいことです。「解同」では騒動の動機を説明したことになりません。
ねこさん,どうも.
「水伝信望者はどこにもいません」ということですが,確かに『科学的に正しい』として信仰している人はいないと思います.しかし,水伝の持つ『素晴らしい物語』には感動して,どうしても捨て去ることができない人は数多いのではないですか.私の記事はそういう人を対象にしているのです. そういう人は『水伝の道徳批判』に対して,『抵抗感・違和感』を種々の違った形で主張しています. ところで,ねこさんの仰る『外翼思想』は西部邁氏の思想によく似ていると感じます.西部氏は,絶対王政と,法に基づいた市民社会(それが資本主義かもしれないし社会主義かも知れないが)の二分法だと思います. 絶対王政の根拠(なぜこの人が王なのか)は科学的には説明できないので神話や何かをそのまま信仰として認め,そういうものを『権威』として利用しようということです. |