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『水伝の道徳』(2)-心地良さの裏に潜む悪魔
2008年 05月 22日
2.道徳の権威付け
ここでは,『道徳の基準の正当化』を根拠のないことで謀ることの危険性を指摘しておく(今さら気恥ずかしいが).いわば,『水伝の道徳』神授説ならぬ,科学の権威悪用説である.しかし,道徳をこのように何かの権威を以って正当化する,ということの危険性を拙記事:『科学と道徳』シリーズで考察した. その危険性とは2点あって, (1)権威に頼ると権威のないことについては何事も判断ができないことになる (2)従って,逆に恣意的に悪意ある捏造者が現れると容易に大衆が操作される=ポピュリズムへの抵抗力が全く無くなる という点である.しかもそれは一般論だったのであるが,この水伝に限っては,権威自体が捏造,しかも,その『水伝の道徳』自体が次に書くようにその裏にとんでもない悪魔を秘めているものである. だから,『水伝の道徳』は二重の意味で『正しい道徳』ではない. 3.『水伝』の裏の意味 『水伝の道徳』は,「ありがとう」や「感謝の言葉」,「優しいことば」をかけるときれいな水の結晶ができ,「汚い言葉」をかけると汚い結晶ができる,という『教え』であった.これだけを聞くととても良いことのように思われる. どうして水は世界中の言葉を知っているのだろう とか, 「バカヤロォー・・・」といいながら感動的に抱きあうことは水は嫌いなのか なんて疑問も感じる暇も無く, 『それってとってもいいこと聞いたわぁ・・・』 と感動してしまいそうである.ところがところが, 『良い言葉』→『きれいな結果』,『幸福な結果』 という一見,素晴らしいことの裏に,とんでもない悪魔が潜んでいることに気づかなければならない.この論理の対偶を考えたらすぐに悪魔を明るみに出すことができる.もし上の論理が成り立つとすれば(”真”ならば),次の論理もまた成り立つ(”真”となる)のである. 『汚い結果』,『不幸な結果』→『汚い言葉』 つまり, 『汚い結果』,『不幸な結果』になったのは『汚い言葉』を使ったからだ になってしまう.そういうことを主張していることになっているのだ.しかし,世の中にはやむなく『不幸な状態』になる事があるのは絶対に避けられないことだ.また,『汚い』ものができることだってあるはずだ.ならば,たとえば子供ががんに罹った,という不幸な状態はどのように考えたらいいのだろう. 子供ががんになるのと『汚い言葉を使ったこと』と関係あるだろうか?無論,汚い言葉を使う親もいるだろうけど,そうでない親の子もがんになる. すると,『水伝』を信じてしまった親は,『ひょっとして有りかも・・・どうしよう・・』と悩むことになる.お母さん(お父さん)は,『一体どの言葉が悪かったのだろう』と一生,わが身を攻め続けることになるだろう.『良い言葉→きれいな結果,幸福な結果』ということを主張するということは,がんになった不幸な結果は汚い言葉を使ったお前の責任だ!ということを主張するのとおなじことなのだ. このように,誰にも心地よく響く『水伝の優しいささやき』はその裏に,とんでもないひどい『悪魔の言葉』を隠しているのであり,人をグシャグシャにしてしまう毒を隠し持っているのだ. 4.科学は人を傷つけるのか 『水伝批判』に対する『抵抗感・違和感』の中で,最も判りにくかったのがこのレイヤーであった.ようやく理解できたと思うことをここで書く. 要するに, 『科学は人を傷つける』 という叫びが聞こえていたのだが,その意味がよく理解できなかったのだ.まあ,『そんなはずはないんだけど・・』ということであるが,分かって来たのは,これは 『水伝を批判する人たちは,科学の権威をふりかざして,個人が大切に大切に思っていた水伝の道徳を情け容赦なく批判する.その結果,私という人間がグシャグシャになった.』 ということの別の表現ではなかったか,ということである.このような事実(個人を情け容赦なくグシャグシャにしたという事実)関係については決してそうではない,と思うが主題ではないのでここでは触れない. そうではなく,『科学は人を傷つける』ということをもっとよく考えてみよう. がんの告知を例にとって考える. 1.がん診断で末期がんと診断された.その所為で人生が真っ暗になった.これはがんと診断できた医学がある所為だ. 2.がんの告知を希望していないのに告知された.これで大きな苦痛を受けた.これは医学がある所為だ. 結局は,この中の『医学』を『科学』に置き換えたような主張と同じなのではないか,という結論に達した.これはすぐお分かりのように,『医学』そのものの責任ではない.科学も同じことである.使う人の責任ではあるけれども『科学』そのものには罪は無い. だから,不当に『科学』を忌避すると,有益な結果はもたらさないのである.素人は判断できないのなら,しっかりしたことがわかるまで『判断保留』すべきである.今,怪しげな脳科学者もうろついているので,あまり『真』に受けない方が賢明だろう. このほか,くりずさんの作られた表現もここで紹介させていただこう.なかなか良くできている(上掲の愚樵さんの記事へのコメントから). 「消防署の方から来ました」と言って高額の消火器を売りつける詐欺師がいるとします。それを消防署に対して「消防署がこんなところに建っているから、詐欺師がでるんだ!」と文句を言っても意味が無いですよね。 やるべきことは・・・、「消防署の職員が消火器の訪問販売をすることは無い」という事実を知らせることではないですか? 以上,言いたいことは大体書いてしまったが,最後に二つだけ. 『個人の信仰と社会的行為は別で,批判も自ずから異なるべきである.』 『真の科学的事実が明らかになって個人の信仰が崩れても,真の科学の責任ではない.それからあとどうするかはあなた次第である.うまく調和させるか信仰を捨てるか,あなたが自身の責任で決めて良いのだ. ただし,真の事実でないことがわかったものをそのまま人にプロモートすることは遠慮されたし.』
by papillon9999
| 2008-05-22 13:34
|
Comments(35)
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そうすると、キリスト教イスラム教含め、ほとんど全ての宗教の布教者は、アルバイシンさんの敵にまわってしまう…。
現代の世界においても、その言はあまり通用しないんじゃ…。 むしろ異相にある二つの価値観の内なる(さらには文化的な)融合が必要なのでは? 早雲さんの言うように、「科学(唯物論)」と「スピリッツ(非唯物論)」の。 その上で、「水伝」プロモーターの欺瞞を暴きに行った方が、信者の方々の理解も得られやすいと思うのですが…。
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naokoさま,こめんとありがとう.
naokoさま,『宗教の布教者はすべてアルバイシンさんの敵』というのはまったく違います.『水伝の道徳』が『宗教』であるのなら私はこの記事のようなことは何にも言わないでしょう.新興宗教が現れたか,と思うだけです(好ましいと思うかどうかは別ですが) 私の宗教へのスタンスは過去の記事を見てもらえば分かります.私自身は宗教はありませんが,宗教を頼りにしなければ生きていけない人々もいる,という考えは私の感性の中に埋まっています.だから,人類は宗教と共存していくはずのものであり,信教の自由は最大限,保障されなければならないと思っています. 問題は,むしろ『水伝の道徳』が宗教として現れたのではない,ということなんです.それが『宗教の教理』ならば問題はありません.(ただし,道徳として扱うことは許されません.憲法違反です.) 水伝の道徳が一般社会における道徳として『権威を以って』現れたことが問題なのです.ですから,私の記事は,『宗教』への批判をしているのではないことをぜひご確認お願いします.
もう一つすみません.
ひょっとしたら『宗教も根拠のない思い込みをさせられているのではないか』というご心配があったのですね? 残念ながらそれはイエスです.それで,人は信じた宗教をなかなか離れられなくなるのです.そもそも,宗教がたくさんある,ということ自体,自分が信じたいものを勝手に信仰していることを意味します.たくさんの宗教が,俺が正しい,いや俺の方が正しい,と言い合っているのですから,少なくとも一つ以外は全部間違っていることになります.でも宗教の本質は『信じたいものを信じればいい』のであって,『どれが正しいか』を決めたら成り立たないものです. しばしば,人間は自分の信仰していた宗教が如何におかしかったか,ということに気がついたときに,人間性がグシャグシャになるものです.でもそれから立ち直って生きていかねばなりません.また人間はそれができるのです.
ついでながら,私は『科学対精神』という二項対立史観には与しません.科学とはそのような,『精神』との対立概念ではないからです.
科学とは道具に過ぎません.+のねじ回しがマイナス-のねじに使えないのとほとんど同じことです. ねじ回しをナイフの代わりに人を突き刺すことに使ったとしたら,そういう風に使った人が愚かで許されないということであって,ねじ回しの責任ではありません.ねじ回しへの非難は筋違いというものです. ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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アルバイシンさん、丁寧なレスありがとうございます。
「科学技術」は道具である。これはわたしも同意です。道具には善悪はありません。ようは使い方の問題ですね。 対してわたしが言いたかったのは、それを扱う人間精神の問題です。どうも言葉の使い方が不適切だったようで…。 「近代的唯物論に拠って立つ科学的精神」と「非唯物論的スピリチュアルティに拠って立つ精神」との内的、および文化的融合の問題を提示したつもりでした。 わたしは両者共に、合理的精神と考えております。ただし、思考の方向性や質が明らかに違う。 とはいえ、この両者は互いに、一人の人間の内面の、異なる層に分離して存在しているのが一般的ではないかと感じています。 このため、話し手の発した言葉は、たまたま異なる位相に在る他者の精神には、うまく伝わらないことが多いのではないかと…。 そんなことを考えているものですから。 アルバイシンさんの関心からは少し離れているかもしれませんね。
naokoさま 昨日からお祝い事があってダウンしていました.(^o^)
ところで,仰ることが実はよく理解できないのです. 科学の言葉を精神のレイヤーで受け止めてもねじ回しの+とーの違いのように,消化できないのは当たり前ですよね. 結局,仰りたいことは次のように言えないのでしょうか? 『私の信じたいものは科学がどう言おうと,科学的にどんな説明がなされようと信じる.余計なことは私に伝えないで欲しい』 ではないのですか? もしそうでしたら,その人は自ら傷つくことをしなければいいはずですね.余計な情報を自分に入れなければいいと思うのですが. それでも,聞きたくもないのに捕まえてわざわざ聞かせたい人がいるかも知れません.そういう人は水伝をプロモートする人と同じ罪をかぶることになります. ちょっと的外れの応答かも知れません.
『科学の言葉を精神のレイヤーで受け止める』ということに関して
例えば,日食の現象を,神の何かのメッセージと感じる『精神』があるとします. それに対して,あれは単なる物理現象だよ,千年後までもいつ起きるか分かっているんだよ,と『科学』が説明するとします. naokoさんの仰ることは,そういう日食の科学的説明をその人の精神では受入れられない時もある,ということなんでしょうか? ちょっと具体的に考えてみましたが,これも的外れかも知れません.(^o^) でもそういう心性には大変興味があるので,もう少しお付き合いくださるととても嬉しいのですけど・・・
『「近代的唯物論に拠って立つ科学的精神」と「非唯物論的スピリチュアルティに拠って立つ精神」との内的、および文化的融合の問題』
ということですが,端的に言えば「非唯物論的スピリチュアルティに拠って立つ精神」とは『信仰』ではないのですか? 信仰とは『科学的事実とは無関係に存在するもの』ですから,科学的事実を示して人の信仰を止めようとしても無駄です.そして科学とは『信仰をやめさせようとするもの』ではありませんから. 『科学は道具であることには同意です』と仰りながらこのようなことを言われるのは腑に落ちませんね.道具とは単に,事実を示す,ということです.日食の原因を述べるだけです. その事実を知ったら個人の『科学的精神』と『信仰』が葛藤するのは当然でしょう.それはその個人が自らの責任で解決すべき葛藤です.日食の科学的説明なんてどうでもいい,と考えるのも自由です.
しかし,その事実を伝えること自体は,『科学を扱う人の問題だ』とはまったく言えません.だれが言っても同じことです.ただ,聴きたくもない人に押し付けて聴かせる,というのはとても重い違反です.
科学的精神と信仰の葛藤は個人の問題であって,他者との間には何の問題も生じていません.社会的にプロモートすると,それは科学的事実に照らして批判にさらされます. 同じ事を繰り返しているようですが,別の言葉で何度も言い換えてみます. 科学は単に事実を述べるだけです(道具).その事実が,自分が信じていた信仰をグシャグシャに砕いてしまった,としても,『科学の用い方が悪い』とは言いません. 『科学は人間を測れない』,と仰る所を見ると,事実を知る,または知らせることが個人の大切に思っていること(信仰)をグシャグシャにする,と訴えたいようですね. 科学的事実を知りたくなければ聞かなくて良いし,知ったとしても信仰の方を取れば良いのです. ただし,人に伝えるのは遠慮された方がよろしいかと存じます(たとえば日食の個人的な信仰に基づく説明など).それは科学的な吟味を経て社会的な批判にさらされることになります. ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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お祝い事ですか?
おめでたいことがおありでしたのなら、なによりです。 ところで、なかなか苦心されてますね。 わたしが言いたいことは…。 科学は事実をも測りえないということです。 たとえば、わたしの好きな本に『眠られぬ夜のために』というヒルティの本があります。 カール・ヒルティは20世紀前半のスイスの法律家・政治家だった方で、国際連盟の創設に影響力を発揮した人物です。 本の中で、彼は「真のキリスト者とそうでない者との違いは、キリストの復活を、文字通りの意味で(比喩などではなく)、紛れもない事実であることを、欠片の疑念もなく確信しているかどうかである」と述べています。 ![]()
ヒルティの言によれば、わたしが真のキリスト者でないことは確かです。
率直な感想ですが、もしこれがヒルティ以外の一般庶民の言葉であったなら、「気でも狂っているのか?」と言われて、一顧だにされずに終わったかもしれません。物理的には不可能と思われるからです。 しかしヒルティはさらに「キリストの復活が事実であることは、少なくとも数百人の人々が彼の姿を見、彼の声を聞いているということからも明らかである」と続けています。 彼は個人の信念の表明ではなく、‘事実である’と主張している訳です。 実は、わたしは彼の言を否定する気にはなれません。 『キリストの復活は事実としてあったかもしれない』と考えるのが、わたしの立場です。お分かりでしょうか? ![]()
国家神道によって明治期に弾圧された、出雲の神道においても、「『大国主神』は、現実にこの国を守っていらっしゃる」という‘事実の表明’が、信仰の基盤なのです。
これも、わたしには『事実かもしれない…』と言うしかありません。 大国主神に実際に会われた方の本を読んで、そのように感じたのです。 しかし、こうした言説は、一般には通じにくく、それゆえに、今日あらゆる宗教は、一般社会から隔絶した小集団をつくる傾向があります。 「カルト化」を免れないということです。 そうした閉ざされた小集団の『文化』は、歪みを生じやすく、わたしとしては、それが最大の心配です。 「信仰は個人のもの」とおっしゃいますが(それは一面、真実ではあります)、しかし、個人は社会的文化の影響の下に、信仰を育てるものです。 『語りえぬもの』を語る人々が存在しなければ、どんな信仰も生まれ得ないでしょう。 ![]()
たぶん、わたしとアルバイシンさんの立場の違いは、信仰とは何か?という認識自体の差異にあるかもしれません。
わたしは、人間とは何らかの‘信仰’なしには自然な‘心’を保ち得ないのではないか、と考えております。 その場合の信仰とは、先に挙げた具体的な‘神’を信ずるということをさす訳ではありません。以前少し触れたような気もしますが、『目に見えぬ世界(非唯物論の世界)への畏敬の念』と言えば、かなり正確なのではないかと思います。 こうした信仰は、他者との「対話」や非難・中傷などによって、ぐちゃぐちゃにされたくはないものです。とはいえ、やはり開かれた文化の形成のためには、発信していくことも大切ではないかと思うしだいです。
naokoさま,ようやくわかってきました.
『苦心』 そうです.仰ることがよく理解できなかったので,ああだろうか,こうだろうか,と言い回しを変えていたのでした. ところで,信仰とはまさにnaokoさんが仰るとおりのものと,私も思っています.そこには全く異議はありません. 信仰とは根拠も無しにその通りのことをそのまま信じることです.根拠があればそれは科学になるからです. ただし,科学は『事実をも測れない』という点に関して,科学は真にキリストの復活があったか,ということに積極的には関わりません.再現実験も何もできないからです.逆に,信仰する人々がほんとにあったのだ,と証明することもできません.単に信じるだけです.だから,信仰に留まる限りは科学は何も言いません.
しかし,『目に見えぬ畏敬の念』を侵害されてはいけないことと全く同じ意味で,それを他人に押し付けてもいけないことはご理解いただけますか?目に見えぬ世界への畏敬の念を社会に広めようとすると,それは社会的なことです.普遍的なものにしようとするからには,それに値するかどうかを吟味される必要があります.宗教としての布教なら許されますが,社会一般の価値観として訴えたいのであれば,批判に堪える必要があります.科学はそのような時の判断道具の一つです.
キリストの復活を社会一般の普遍的な真理と認められないのは,『科学的にありえない』ではなく,『それが証明できない』からです.科学は超保守的な営みなのです.積極的に否定しているのではなく,肯定するための判断材料がないから,取り上げられないだけなのです. 何度も申し上げた,+のねじ回しは-のねじには使えない,というのはこのことです.
念のため,続けてみます.ヒルティの言明についてです.
ヒルティなる人物は 『キリストの復活は‘事実である’』と主張しているそうですね.その根拠は『少なくとも数百人の人々が彼の姿を見、彼の声を聞いている』ということが聖書に書いてあるから,ということですね. すると,その聖書を丸ごと信じなければそういうことは言えませんよね.それを社会的な価値観として共有することは,聖書を信じる人以外には無理なことです.ですから,ヒルティなる人物の言明も,単に自分の信仰の表明にしか過ぎないわけです. また,聖書から離れて,ヒルティの言ったことを信じる,というのは,ある個人の言明を信仰する,ということに他なりません. このように,信仰というのは何処まで行っても結局は『丸ごと信じる』という境目にぶつからざるを得ません.
naokoさんの仰りたいことが分かってきた,というのは次のようなことです.naokoさんは,『信仰』というものをもっと社会で共有してもいいではないか,ということなんですね?
そしてその形は最も基本的と思える 『目に見えぬ世界(非唯物論の世界)への畏敬の念』 という信仰ですよね.または信仰の基になる心性を広めたい,ということですかね.仮にそうであるとして,話を続けます. そのこと自体は問題ではないかも知れません.でもこのような具体性のない形だったら何も言ってないのと同じです. 例えば,水伝の道徳なんかにぶつかったら,『水伝の道徳』を否定することはこの『畏敬の念』を冒涜している,とお考えなのでしょう. しかし,私は水伝の道徳をプロモートすることが,『畏敬の念』を冒涜していると考えます.なぜならタカが人間が偉そうに自分がいいと思うものを他人に捏造してまで広めようとするからです. このように,具体的な話になると考えがいろいろ異なって来ます.つまり,信仰の形では普遍的な価値観を構成することは困難(不可能というわけではなく,そういう部分もあります)ということだと思います. ![]()
そうですね。捏造はいけない。また、「科学的に証明されている」という言説は、あきらかに「擬似科学である」という批判を免れ得ない。
しかし、その先は…。 わたしとしては、それ以上の批判、つまり「水伝」が‘事実’であるかどうかという点に関しては、あくまでも‘?’であり、「それは科学的には証明されていない(あるいはされ得ない)」という批判に留めるべきではないか、という立場です。 それ以上の批判は、『他者の宗教的確信に対する冒涜となる危険性を帯びる』という懸念がぬぐえないからです。 こうした行過ぎた批判は、信仰の「カルト化」を生みやすいという視点が、一貫したわたしの主張の中心懸案です。 ただ、それについて「わたしにはどうしても出来の悪いファンタジーとしか思えない」というような個人的意見や感想は、なんら他者の宗教的確信を傷つけるものとは思いません。 最大の問題は、「これは科学的に証明されえない。だから間違いなのだ。それゆえ信じてはいけない」という言説です。こうした批判は、明らかに他者の宗教的確信にまで、踏み込んで否定しているわけです。これに対して反発が起こるのは、当然ではないでしょうか? ![]()
さて、ここまで書いてきて、また、はたと思い至ったことがあります。
アルバイシンさんは、信仰が、「根拠もなくただ信じること」と書いておられます。しかし、わたしはそれには同意致しかねます。 わたしは、何の根拠もなくただ信じる(宗教的確信を得る)ことが出来る人間がいるとは思えないのです。もしいたとしたら、その人は‘精神を病んでいる’か、極めて‘不合理な思考をしている’と言わねばなりません。 もしも、ここまでのわたしの言葉を読んできて、アルバイシンさんが、それでもなお、そのように考えているとしたら、わたしは屈辱を感じる権利があるのではないでしょうか(笑)? 健康な精神を保っている人間が信仰に至るには、本人が合理的と考える根拠があってしかるべきです。 ただ、『その根拠となる体験が、非常に個人的なものであるため、自分が宗教的確信を得るに至った根拠を、他者に明確に理解させることが不可能である』ということなのだと思います。 たとえば、ムハンマドが『天啓を得た』というからには、それなりの宗教的体験を、本人が経たことは間違いありません。その体験が如何なるものであったのか、他者が窺い知ることが出来ないだけです。 ![]()
本人にとっては、しかるべき合理的な根拠が、ちゃんとあるのです。
ただし、明らかに精神の病にかかっている状態だと思われる場合や、不合理な自身の心性にしがみついているだけのように思われる場合も、確かに少なくありません。また、根拠となる宗教的体験もなく、宗教的確信を抱いていると、信じてもいないのに公表する‘エセ宗教者’も、いるかと思われます。しかし、それが全てではない。 わたしはそう感じるのです。 もちろんわたしがそう感じるのには、極めて合理的な根拠が多々あるのですが、残念ながら、アルバイシンさんにその根拠を、納得いくように説明できるかというと、それはなかなか困難だと思われます(汗)。 それゆえ『語りえぬもの』と、愚樵さんはおっしゃった訳ですね。 ただ、ひとつだけわたしに言えることは、『目に見えぬ世界・語りえぬ世界』の実相は、多くの現代人が考えるより、はるかに豊穣であるということです。これも、わたしの経験上からくる予測に過ぎませんが…。 また、長々とおしゃべりをしてしまいました。 つまらなかったなら、ごめんなさい。 では。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
naokoさん,ようやく話のできる部屋を探り当てた気分です.これだとたくさん対話ができると思います.
『水伝の事実性』について 残念ながら『水伝の結果』は科学的には厳密に否定されます.その判定がある個人の信仰の基盤を揺るがそうと,naokoさんの「本当だと思いたい」立場をグシャグシャにしようと事実は事実なのです.事実を個人の信仰を壊さない方に曲げてくれ,と言われてもできない相談です. 水伝が素晴らしい物語だと感じたのは『科学的根拠がある』と聴いたからでしょう?その科学が,根拠はない,と判断したのですよ. 科学的な論争をされたいのですか?それならば,ご自分で科学的な立証をなさることです.ご自分は理系ではないので自力ではできない,というのであればそういう科学者を探して,引用されてはいかがですか.恐らく見つけるのに骨が折れることでしょうが,もしおられたらその人は社会と科学的な論争をしなければなりません.(残念ながら捏造者の江本某はその気はないようです)
そうではなくて,そこまで決着をつけなくても良いではないか,という意味ですか?そういうわけにはいかないでしょう.決着を付けたい人もいれば付けたくない人もいる.個人が指図する権利はありません.
科学的な事実を公表させない,ということはとても不自然かつ危険です.聖書主義者が進化論を弾圧するのと同じ構図になりますよ. 私はこのシリーズの(3)で,「信仰の根拠は外から(科学などから)常に脅かされる危険に常にさらされている.それは信仰を選択した際のリスクである」と書きました. そのリスクに対処するには 「外部からの情報を遮断する」か 「その情報を無視する」か 「その情報にも合うように信仰を修正する」か 「信仰を捨てる」か, いずれかを選択しなければなりません.でもどれを選択するかは個人の内部にとどまる限り(社会的な行動無し)はまったく自由である,と強調しておきます. 信仰とはそのような『外の世界』との闘いでもあるのです.
『最大の問題は、「これは科学的に証明されえない。だから間違いなのだ。それゆえ信じてはいけない」という言説です』
と書かれてますね.何度も申し上げますが,最後の『信じてはいけない』という部分は違います.社会的にプロモートすることがいけない,といってるのです.信じるのはその人の自由だからです.(その代わり基盤を揺るがす外部情報と闘う覚悟は要るでしょう) それから,『科学的に証明されない,だから間違いなのだ』はかなり不正確です.水伝が科学的に間違っていることは厳密に証明できることです.
次に『信仰のカルト化』の問題です.
信仰する人を追い詰めてしまわないように,ということですね.それは別の問題として考える必要があるでしょう.残念ながら私は特効薬を持っていません.ただ,科学は事実を正確に伝える仕事は粛々と続けなければなりません. 信仰の基盤をグシャグシャにされた人たちへの心のケアは大切です.カルト宗教(S学会も含めて)から抜け出すことは殆ど困難です. たとえばエホバの証人から抜け出すことができた子供達はみな一様に心に傷を負っています.これは信仰というもののもつ大きな弊害の一つです.ですから,信仰は自由だ,と言いましたが,このようなリスクを背負うことをぜひ知っておくべきです. 逆に言うと,無批判に社会的にプロモートすることが如何に大きな罪を犯すことになるのか,思い知るべきです.それと『非物質的なものへの畏敬』というものをどれにも当てはめる危険もぜひ認識すべきです.『非物質的』というだけで何にでも心魅かれるということはとても危険と言うことです.
『信仰の根拠について』
「本人にとっては、しかるべき合理的な根拠が、ちゃんとあるのです」 と書かれましたが,「本人にとっては」と言うことが問題なのです.つまり,他人と共有できない根拠,それを「思い込み」と言うわけです.ですから,信仰とは思い込みを根拠とした確信,と言うことになります. 『天啓』と言っても,なぜ神はある個人を介してしか伝えないのでしょうか?神自身は我々には直接語ってはくれません. それから,あちこちで天啓が下されます.それらはお互いに全く違ったものです.すると,一体どれがホントの天啓なのか,という難問に突き当たります. 『目に見えぬ世界・語りえぬ世界』の実相は、多くの現代人が考えるより、はるかに豊穣であるということ』 こう思われるのはご自由ですが,上に述べた『信仰のリスク』もお考えになることをお奨めしたいです. 『非物質的』というだけで何にでも心魅かれるということはとても危険,という言葉を衷心より捧げます. naokoさんは私の娘と同じ名前です・・・ ![]()
わたしはそれほど多くの宗教的確信を抱いているわけではありません。
さらには、いかなる既存の宗教の信徒でもありません。 「限りなく深く信ずることは、限りなく疑い続けることに通ずる」というのが、わたしの信条です。 それは言い換えるなら、「どんなことも決して思い込まないこと」でもあります。 たとえば、ニュートンが死の直前に自分の生涯を「真理の海の浜辺で、珍しい貝を拾っては喜んでいた子ども」になぞらえているように、生涯、その真理の海の中には、一歩も足を進められないで終わるのが、人間であるように思うのです。 ご存知のように、ニュートン力学は、のちにアインシュタインの相対性理論によって覆されるわけですが、それでも、ニュートン力学が、概ね自然界の現象を理解するのに、今でも役立つように、「語りえぬもの」を語った先人の知恵もまた、概ね人生を生きていく上で、役に立つとわたしは考えます。 あくまでも合理的な思考、さらには検証を経て、時には何らかの個人的確信に達することはあります。 しかし、おっしゃるような‘思い込み’は、それほど多くないと思いますよ(汗)。 ![]()
その意味で、「水伝」を科学的に検証する上でも、あくまでも‘概ね’検証することができるとは思いますが、‘?’の余地は決して消えないとわたしは思っています。
しかし、その一方では、現在、多くの宗教団体において、アルバイシンさんのおっしゃるような‘思い込み’が、誇大妄想の域にまで達しつつあるというのは、わたしの偽らざる感想です。 しかし、それを批判する側にも、やはり多少‘思い込み’があるのではないかと感じることも多いのです。 もしも、外の世界の精神性が‘豊穣’であるなら、多くのカルトの信者は、そこにはまらずとも済んだのではないか、とも思います。少なくとも、あれほど出来の悪いファンタジーにはまることもないだろうに、と感じることもしばしばです。 P.S.お父さんにとっては、娘というのは何か‘特別’な存在ですよね。 アルバイシンさんの溺愛ぶりが、目に映るようです(笑)。 娘さん、なおこさんの御多幸を心からお祈りします。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
naokoさんへ, 大体,お互いに相手の言いたいことがようやく通じ合ったような気がしますね.あとは見解の相違,と言うことになりそうです.
細かく言えば,違和感を感じることも残っています. 『ニュートン力学はアインシュタインの相対性理論によって覆される』 これは包含される,という方が適切ですね.ニュートン力学で正しいとされたことが相対性理論で間違いとされたのではないからです.ニュートン力学で説明がつかない所が相対性理論で説明がついたということですから,道具として使う場所が違ったとだけにすぎず,ニュートン力学も間違ってはいないわけです. 真理の私のイメージは無限曼荼羅です.人生はその曼荼羅の一つのピースを埋めようとする営みかも知れません.私の人生がその営みの手助けになれたら言うことはありません. 『外の世界の精神性が‘豊穣’であるなら』 そう,残念ながらすべての人にとって十分とは言えませんね.ですから,宗教は人類には必要なのです.その時に,優れたものを見分ける知性が重要だと言うことですね.その際に私は勝手な捏造とその無批判なプロモートは重大な誤りをもたらす,と思っています.
もう一つだけ.ニュートン力学と相対性理論との関係はねじ回しの例で行くと,+のねじ回しだった(ニュートン)のが改良されて,シャーペンのように差し替えで+も-もできるようになった(相対性)と言えるかと思います.
この意味で,水伝の間違いとは根本的に異なるわけです.これが将来,新理論によって成り立つということはありえません. でももういいですね.お互いに言いたいことは伝わったし. naokoさんは心配いらないようで良かった.再度 『『非物質的』というだけで何にでも心魅かれるということはとても危険』 と言わせてください. 娘への温かいお言葉真にありがとうございます.naokoさんも良き人生をお祈りいたします. こういうエールの交換っていいですね. いい年したおっさんとの対話にお付き合いくださってどうもありがとうございました. ![]()
こちらこそ、相手をしていただいてありがとうございます。
とても有意義な時間だった気がします。 「『非物質的』というだけで何にでも心魅かれるのはとても危険」 「人生、つまらないものにつまずかないように。」というご心配として、受け取らせていただきました。 アルバイシンさんのお心遣い、ありがたく肝に銘じます。 わたしは基本的には「君子危うきに近寄らず」をモットーとしておりますので、ご心配なさるようなことは、たぶんないとは思うのですが…。 わたしが惹かれるのは、おもに「知的好奇心」からです。(そこが、あぶないとアルバイシンさんならおっしゃられるかもしれませんね(汗)。) あと時々相手を見ないで、自説をぶつける癖があり、あとで相手の思わぬ反応に落ち込むことも多いです。 これからも、コメント上、アルバイシンさんの視点から、これは言い過ぎではないか、と思われる点がございましたら、指摘いただけたら幸いです。 P.S. 実は、自室にチベット仏教の胎贓界・金剛界の曼荼羅図を張ってあるのですが、その図の上に、今、さまざまな人の人生模様を思い浮かべ、ちりばめて想像しています。不思議に落ち着きますね。
「人生、つまらないものにつまずかないように。」と取って頂いて嬉しいです.
「知的好奇心」は素晴らしいじゃないですか.また,曼荼羅図を張ってるなんて物すごい人ですね(^o^)/~ いやいい意味ですよ. 相手の言いたいことが伝わった時に,対話の素晴らしさを実感できますね.相手を説得したりする必要はなく,合意が難しければそのままでもいいのですよね.お互いに,自分の考えの参考にすればいい. よろしければまたどこかで『対話』をしましょう. |