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科学と道徳(2)
2008年 05月 13日
東西さんは私の考察の不備な所を正当に指摘されてきた.それに対応するために新たに考え直して,前回の記事のようにまとめたのだが,まだ重大な点が残っている.人類がいつも陥るポピュリズム,全体主義の問題である.ある意味ではこれが最高の悪ではないか,と思えるのだが(と思ったが,新自由主義があった.しかしこれは民主的に偽装された緩やかな独裁,と言えるのだろう),要するに例えばナチズムの再来を,人類の無限曼荼羅図的な真理の捉え方で防ぐことができるのか,ということだ.
自然科学と人文・社会科学との違い 東西さんは仰る. 『人殺しの事実をいくら羅列してもそれを科学とはいわない。戦争の事実をいくら羅列してもそれを科学とは言わない。戦争の原因が何であり、人殺しの原因が何であるか、を認識して初めて科学となる。』 そして科学となったからには 『戦争の原因、人殺しの原因を認識したのであれば、人類はその道徳を復権することができるからだ。これが科学であろう。』 たしかにそうであろう.原因がわかったのであれば今度はその原因となることを除く,あるいはしなければ良いのだ.その経験に当てはまればそのピースは間違っている,ということができる. しかし,ここに非常に厄介な問題がある.同じ『科学』とは言いながら,人間や社会を扱う科学は自然科学と違う点が一つだけ(ではないかもしれないが)あると思う.だから,追試や論証ができない,あるいは結論が普遍化できないのである.それは 『人間が代わっている,環境や自然や経済状態,科学的知識も変わっている』 点である.自然科学風に言えば『境界条件が変わっている』のである.だから,厳密には新たに解きなおさなければならない.だから,社会科学や人文科学は発達が遅いのだ,と言えるのかもしれない.普遍的な形では蓄積が難しい(不可能ということではない)のだと思う. 自然科学との対比でもう少し考えよう.ある人が一から考え始めるとする.自然科学では辿る道筋は大昔から不変である.せいぜい,コンピュータがあって,それを援用できる,という点が違うが,論証には直接の関係がない.だから,能力さえあれば誰でも,1万年前でも宇宙人でも同じ所にたどり着くことができる. しかし,自然科学以外ではどうだろうか.人は死んで入れ替わる.すると考える人自体が変わる.すると脳内のデータも違う.論証の際の周囲の条件も違う.気候や経済状況やいろんな偶然性が重なる.するとたどり着く所が常に同じとは限らないのではないだろうか.そしてそれは避けられないことのような気がするのである. つまり,取り扱う問題がそういうことに影響される問題なのであり,それが問題の本質なのである.だからすべてのものを定理のような形では蓄積することは難しい.ここに,道徳のようなものを『科学』から証明しよう,という試みの限界をみなければならない,と思っている.前回の記事で,『科学から道徳を証明することはできない』と言った,その傍証といえないだろうか. 『正しい道徳基準』のはかなさ 上に書いたようなことからすると,結局は相対的であり,絶対的なものは『提示できない』(期待しないほうが良い)ということになる.そうすれば,どのようにして『基準』を決めるのか.世の中が動くためには好悪を超えて,なんにしろある『基準』が必要なことは言うまでもない.動物社会だってある基準で動いている. 私は最初, 『優れた思想等を手がかりに,みんなで合意して決めていくことが必要』 という趣旨のことを書いた.しかし,これはすぐに不十分であることがわかった.東西さんから 『ナチズムの大量虐殺だって,多数の合意に基づく道徳となったではないか』 それはその通りである.単にみんなの合意,というだけでは最悪のファシズム突入も防げなかった.むしろ,『多数の合意』とは『ポピュリズム』となるのではないか,と次のように指摘された(趣旨). ======= 「多数の合意が道徳である」という態度は、完全にポピュリズムであり、全体主義です。部落差別しかり、共産主義者弾圧しかり。 ・・・必要なのが・・・ポピュリズムの否定なんです。つまり、道徳基準については、「多数の合意があるから正しい道徳」というポピュリズム基準は100パーセントありえず、「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」という基準になるわけです。 究極の真理が実現する社会ということではなく、現在や過去の社会の中に普遍的な法則的な科学上の道徳』が存在している.それを『正しい道徳』として、常日頃から多数の合意を獲得していく」対話運動が絶対的に必要だということです。 ======= それは本当にその通りである.多数の合意を正しい道徳とすることは危険である,と確かに思う.ではどう考えるべきか.私は次のような趣旨の回答をした. 一つは,例えば仮に,『神の基準』があったとしてもきっとナチズムの大量虐殺は起こっただろう,ということである.実際,キリスト教や幾多の宗教があったのだが,殆ど無力だった【注1】.きっと『神の基準』も都合のいいように(今やりたいことができるように)解釈変更されただろうと思うのである.大衆の俗情が刺激されて奔流のように流れ始めてはどうしようもなかったのではないだろうか.(戦争やりたい人はいくらでも憲法を解釈改憲するのと同じ.) すると二つ目に言える事は,人間はそのような揺らぎは避けえない,要するに知性がまだまだ動物から抜けきっていない,従ってそういう前提で社会の制度設計を図る必要がある,ということである. そして三つ目に,普段からポピュリズムに陥らないように鍛えておかなければならない,ということが言える. つまり,東西さんは 『正しい道徳』→『多数の合意を得る』 という方向でないとポピュリズムの防止は難しい,とされるのであるが,やはり私は 『多数の合意を経て』 →『正しいとするものを形成する』 という方向が望ましいのではないか,と思うのである. 『正しい道徳』として過去の尊い人類の叡智が使えるとしても,それだけでは(数的に)種々の問題をカバーできないだろう.すると新しい問題に直面するごとに『正しい道徳』を作らないといけない.するとまあ最初に戻るが『だれがそれを決めるのか』ということから抜け出せていないわけである. さらに言えば,その気になった悪意ある人によって,『正しい道徳』というものもあっさりと,『解釈改憲』のように平気で変更・換骨奪胎 されてしまう可能性は常にある,ということを認識しておかねばならない.上述したように,ナチズムは『正しい道徳』があってもきっと起こったに違いないと思うからである. 以上のように考えると,仮に『正しい道徳』というものがわかって,人類の手に入ったとしても実は意外とはかないものなのではないか,という気がしてくるのだ. なぜなら,『人は入れ替わる』し,境界条件が変わるからだ.すると新しく生まれた人がゼロから教えられて,それまでと同じように『正しい道徳』と感じるかどうか,それは実は,上の≪自然科学と人文・社会科学との違い≫で書いたように保証されていないのではないだろうか. 自分でも予期せぬ悲観的な記事になりつつあるが,ここで切ります.次の記事では,『多数の合意を経て』 →『正しいとするものを形成する』というベクトル社会で,次善か三善か知らないけど大失敗しない社会システムを志向する内容になります. 【注1】 日本でも仏教ですらファシズムに無力だった.むしろ,天皇教という新たな支配の道具が作られた.『基準』を『神』に求める危険性が現実になったのである.
by papillon9999
| 2008-05-13 07:18
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Comments(4)
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ある経験によって死刑廃止派だった人間が、ある経験によって死刑存置派になった(笑)
対立する事実がある。例えば、人殺しと共生。窃盗と私有財産。名誉毀損と自己肯定感。 現実社会は対立物の事実関係ですね。で、人間は人殺しであり、共生者であり、窃盗者であり、私有財産者であり、名誉毀損者であり、自己肯定者である、と支離滅裂しなり、「実証主義的経験主義」というものでは、死刑存廃論も人間の行うことだから、死刑は廃止されたり、存置されたりして、歴史は繰り返すということになります(笑) いろいろと思考した結果がこのような人間社会観では、なんか意味がないような気が(笑)「歴史は繰り返す」と言っているに過ぎないわけですからね。
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結局、現実社会の事実関係は対立物が関係して存在しておるのであるから、一方の事実を真実として認識していくために、「必要なのは、最悪の恐怖を前にしても絶望せず、馬鹿馬鹿しい言動にも熱狂しないような、節度のある、忍耐強い人間をつくりだすことである。知性のペシミズム、意志のオプティミズム」ということでしょうか?(笑)
ソクラテス・メソッドとかいう言葉がありますが、どういうことなのでしょうか。要は、賛否両論のディベートということでしょうか。となれば、ソクラテスも人間は人殺しであり、共生者であり、窃盗者でありうんぬんのエンドレスの陥っていたノイローゼだったということでしょうか(笑) 理論の真実性というか、ある事実が真実だと言える根拠となる事実と理論の組み合わせとはなにでしょうか?
まあ,そんなに悲観しないでください(^o^)/ 価値観というのはある個人にとってはどれが良い,というのを決めることができます.問題は大衆全体の合意としてどのようになるかですが,これはディベートで決着をつけるというよりは,大衆一人一人の心に届くかどうか,ということでしょう.もちろんこれがポピュリズムの危険も孕むわけですが,大衆の知性がそのレベルならどうしようもない,としかいえないでしょう.
たとえば,人権を考えて見ましょう.おそらく東西さんは人権を『神の基準』として黄門様の印籠のように権威付けて用いたいのだと思います.(以前,どこかで拝見しました) 私も人権はそのぐらい権威づけても問題ない価値観だとは思います.しかし,大衆一人一人がこの価値を理解せぬまま,『神の基準相当』として無思考で受け入れるとします.すると,何も思考訓練ができていないタメに,ちょっとの外乱であっという間に人権なんか踏み潰される可能性があります. また新たな問題に対してもこの基準だけでは無力という場合もあるでしょう.たとえば良い例かどうかは分かりませんが,『被告の人権』対『被害者の人権』.つまり同じ『人権』同士がぶつかる事がありますね.
すると,人権は大事だ,といいながら,どちらの人権が大事なのかは自明ではないわけですから,思考訓練ができていなければ間違った所に行く心配もあります.神ならどう判断するのか人類ではわからない,という問題も多数あるでしょう.
ですから,『正しい道徳』というのを先に決めても,あとは『マニュアルどおり』という風には行かないことが多いので,結局はジレンマに悩むことになるだろう,と思えるのです.あとは『マニュアルに書いてあるとおり』と行かないとすれば,『人権尊重』が憲法に書いてあっても,普段からその実質化に向けて思考を鍛えておかねばならないわけですね. ただし,歴史は繰り返す,といって悲観ばかりする必要もなさそうです.昔の奴隷制に比べて,人権尊重思想がここまで到達した,というのは素晴らしい人類の成果です. 人権のジレンマにならない限り,大衆には『人権の侵害かどうか』という思考を迫ることができます. 奴隷制の時代ではこのような思考ができるはずはありません.揺れながらでも少しずつは進歩しているのだと思います. 良き憲法を得る,ということは大きくは揺れ戻らないためにきわめて大きな武器だと言えるのでしょう. |