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科学と道徳(1)
2008年 05月 12日
この記事はまたしても愚樵さんの記事のコメントに端を発している.その記事で愚樵さんが本来仰りたかったこととズレて行った可能性があるのだが,コメントしているうちに東西南北さんや愚樵さんとの話がかみ合って,こちらの方へ話がなびいてきた.
別に東西南北さんと論争したわけではない.互いの疑問点を考えるうちに,私の不十分な考察をより高いステージに立って考える必要に迫られることになったのである.ということで『科学と道徳』というテーマで簡単に書いてみる. まず,『道徳』とは何か,ということを書いておかねばならない.議論の前提をイメージするために必要と考える.いろんな言い方があると思うが,次のような言い方ではどうだろう. 『ある価値観に基づいて善悪を判断する「基準」』 だとすれば,正しい基準,誤った基準,というのがあり得るわけで,議論の主題は要するに, 『「正しい道徳」とは誰が決めるのか,何によってそれが「正しい」と判るのか』 ということである.これを『神』が決めてくれるのであれば我々人類は非常に楽である.そこで,コメント欄の議論は次のようなものとなった. 『以前は宗教の神の基準があった.それが科学によってなくなったがそれは健全か?』 『科学が神の代わりに成りうるのか?』 『そもそもそのような「絶対者」に決めてもらおうとするのは健全か?』 等々に広がった.実は図を描いたりして手の込んだ記事にしようとしていたのだが,時間がないのでやめた.それでコメントを追いながら改めて考える. 『神の基準』について 正しい道徳や世の森羅万象はすべて神の基準から導けるとするのは,究極的な真理の存在への期待が根底にある.その心性は,荘厳な権威が無いと基準としての正当性が証明できない,と怖れることから来るのだろう. だけど,言うまでもないが,神(の考えとする)基準は一体どうやって我々にわかるのか?誰が伝えたのか?それは人間である.だれか賢人といえども,そして多くの人の手を経た宗教思想であるかも知れないが,結局は人間が伝えたものを我々凡人が有りがたがる,という構図でしかない. 私はこの行き方には非常に大きな弊害があると信じている.その最大のものは思考停止状態になることである.絶対の真理・権威に期待するということは,逆に何にも考える必要がない状態を作ろうということである.これは人間が動物になるということを意味する. ここで思うのは,日本国憲法である.これが与えられて護憲派は思考停止状態になった.そして逆に改憲志向を誘発することにもなった.ひとえに護憲派の怠慢である.そもそも憲法自身にも書いてある(どこか忘れたが).『不断の努力によってこれを維持しなければならない』という趣旨の文言があったはずだ. 科学の役割 神の基準を求めるのは不健全だとすれば一体どうすればよいのか.一つの希望は科学,あるいは科学的な態度である.科学というのも人間のやることであるが,その基盤は『論証の公開』,『反証可能性』という所にあり,権威は不要である.すべて『論証』によって結論が導き出せる.ここが,『私に神のお告げがあった』というのと決定的に違う所で,こういうのを科学的態度ではない,と呼ぼう. (ところが最近,ブログ界でも『論理モドキ』が横行していて,一見科学的態度なのだが,実は論理にも何にもなっていない『モドキ』が横行している.困ったことに,それを本人(複数)が理解できてない.当たり前か.) ところが,この科学に期待をかけるあまり,いつか科学によって『正しい道徳』が導き出されるのではないか,という(漠然とした)希望があるように感じられる.しかし,科学が価値観を導くことはできない(キッパリ断言!証明ではなくて見通し!).そういう試み・期待は無謀で愚かと言わざるを得ない.なぜならば,『論理』は『善悪』とは無関係だからである.『論理』は都合がいいか悪いかに関係なく結論を導く.だから,『真理が明らかになってので不幸になった』と言うこともあり得るのである. (論理モドキの人々がよく陥るのがここである.不幸になるのでその真理は違う,といったような錯誤.) では科学の役割とは何か.一言で言うならば,『価値観を考える際の(有力な)手助け』といえるのではないかと思う. 例えば日食とか月食とかは神秘のベールの向こうと考える必要がなくなった.すると,日食になって『なにか悪いことの前触れ』などと考える必要がないわけで,価値観形成に大いに影響したことと思う.しかし,これは価値観そのものを決めることと違う.『手助け』とはそういう意味である.一種の道具. だけど『悪用』には細心の注意を払う必要がある.『優生思想』.だから,似非科学というのが如何にひどいか,危険か,ということも想像が着くだろう. 『正しい道徳』のイメージ 科学も道具に過ぎないとなると人類はなんとも頼りないことになる.でも考えてみれば,動物なんて一生不安に脅えながら死んでいくのではないだろうか【注1】.人類だけ不安のない状態になれる,というのも思い上がりかも知れない.だけどその不安を解消する試みを人類は続けていくのだと思う. そこで,『正しい道徳』,『究極の真理』,『絶対の善』のようなものはどのようにイメージしたらよいのか考えてみた.決してどこかに『宝箱』があって,その箱を開いたらその中に書いてある,そのようなイメージでは考えられない(というのが今まで書いてきたこと). 私のイメージは,『無限の曼荼羅図のジグソーパズル』である.その全体像はわからない.人類の叡智で以ってわかった!と思えた部分に一つ一つピース絵をはめていく,そういう作業をやっているイメージを描いてみた.どうだろうか? ピースを埋めるには,人類の叡智ともいうべき優れた思想(すぐ縁起の思想を思い浮かべるが)や時には既存の宗教,そして科学も必要だろう.そういういろんなものを手がかりにピースを埋めていくのだ. 時々,とんでもない間違いピースを嵌める人がいるかもしれない.するとそれをはがすことから始めなくてはならない.みんなでワーッと嵌めようとしたピースが全然違うこともあり得る.これがポピュリズム,全体主義,のイメージだ. 予期に反して長くなったので一旦切ります.続きでは全体主義のことを考えます. 【注1】 いつか書こうと思っていたのだが,やっとその場面が来た.ねずみなど(レミングだったか?)が時々大量の集団自殺と思しき異常行動に出ることがある.断崖に猛進して次々に生みに落ちて死ぬのだという.私はこれを長いこと思ってきた,「あれは漠然とした不安感に耐え切れなくなって集団パニックに陥った結果ではないか」.
by papillon9999
| 2008-05-12 00:57
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Comments(5)
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初めてコメントさせていただきます。
今、どっぷりはまっている問題なだけに、とても興味深く拝見させていただきました。おっしゃること、とてもよくわかる気がします。 そして、最後の‘漠然とした不安感’…。 これをわたしは『無明への畏れ』からくる、それが増幅された恐慌状態と表現したいと思います。 この‘無明への畏れ’はしかし、人間にとって実は大切な感性でもあると思うのです。そこから、「目に見えない何ものか」への感謝の気持ちも、敬意もまた生まれうると思うからです。 仏縁でも、アニミズムでも、汎神論とでも、何と名づけてもいいと思うのですが、結局「語りえぬもの」ですよね、その存在への感謝なしに、他者への配慮や尊重も、ありえないし、「道徳」も生まれ得ないのではないでしょうか?
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naokoさま 初めまして.お出で戴き光栄に存じます.
『無明への畏れ』 なるほどと思います.愚樵さんが『誠実と呼びたい』と仰ったのと繋がってくるのだと思います.私はもっと平凡に『謙虚』なんて思い浮かべたことでした. 仰るように,こういう『畏れ』があったら,ナチズムのようなメチャクチャひどいことにはならないと思うのですけどね. 人間は『畏れ』で,動物は『恐れ』でしょうか? ![]()
papillonさん、まいどまいど、ありがとうございます。私のエントリーを受けて、このようにエントリーを立てていただけるのは本当に嬉しいです。これこそがブログという形式における「対話」なのだと思います。そして、「対話」は結論を出すことがもっとも重要なことではないんですね。「対話」をすることそのものが重要なのであって、結論は2の次です。
さて、と。で、papillonさんのエントリーにも一言。 私が道徳の完成形で連想するのは、『融通無碍』です。そう、“釈迦の説法は融通無碍”というアレですね。道徳には一般法則はなりたちません。その場、その人で答えはそれぞれ違う。その場、その人にあった道徳を導き出すことができる――これが融通無碍なのではないかと思うのです。 papillonさんの無限曼荼羅に近いイメージですね。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
愚樵さん,どうも.またまた記事を読ませていただいて”発火”してしまいました.発火という相互作用がとても有意義なものだと思います.愚樵さんの仰る”対話”ですね.
当然,一人で出せる結論なんてタカが知れてると思います.この記事もコメントしなかったら書けませんでした. 『融通無碍』にして『則を越えず』,ですね. |