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「自己責任」と自己の「社会的責任」を区別できない赤木智弘さん
2007年 11月 28日
大津留公彦さんから戴いた記事で,赤木智弘,という名前を初めて知った.『希望は戦争』という衝撃的,というより挑発的なタイトルで論壇にデビュー?したお方のようだ.私の第一印象は,『ああ,内田樹とおんなじだ』であった.
内田氏は『格差なんてないよ』だし,赤木氏は『格差社会の被害当事者からの告発』ということのようだから,立場的には正反対の形をなしている.『おんなじだ』というのはレトリック的なものがである. そしてこの人の文章を少し読んで浮かんだのが,『石原慎太郎』.これは以前の記事,「慎太郎さんの『あさましい世の中』」の中で,大西巨人の「慎太郎評」として紹介している.曰く, 『・・・右畜生小説の作者は,当年満23歳の既婚者である.その大の男がおのれを「非大人」に見立てつつ,「大人への不信」などという言葉を吐き出すていたらくは,不潔も極まって,さもしいというもおろかな気が,私にする.』 文中の「作者」とは慎太郎のことである.上記の「大人への不信」を「社会への不信」と置き換えれば,まさにぴったりだと思った.赤木氏は23歳どころか31歳のベテラン大人.それが未だに「社会への不信」とは,『不潔も極まって,さもしいというもおろか』な気がするのである.自分も(いかにフリーターとはいえ)その社会を形作った一人ではないか.その責任とは,新自由主義のいう「自己責任」とはまったく異なるものだ.その違いを銘記すべきと思う.「社会的責任」はあなたにもあるのだよ,と言いたい. 最初に断っておくが,この記事は赤木さんの記事,「けっきょく、「自己責任」 ですか」を読んだだけの主張(反論)である.従って,赤木さんの言いたいことがすべて私に把握できているのか疑わしい.そして,この記事の中だけでもとても重要な問題のぶちかましがある.貴重な問いかけであり,それは評価すると思う(良い方に).この記事の最後で触れるだろう.それらを認めた上で,冒頭のような評価(良くない)を赤木さんに捧げたい. 前置きが長くなったが,ここでは二つのことについて具体的に考えていく. 1.「希望は戦争」というコピーと戦争観について. 「希望は戦争」という心性は私は大変良く理解できるつもりである.記事のコメント欄に書いた通り.私の理解どおりなら,「戦争」は「未曾有の災害」でもいいはずである.それもできれば「日本沈没」級の大地変.実際,神戸や新潟の大震災の時には,若者のボランティアが大活躍し,連帯感ややりがいを感じた人が多かったと思うのである.ただし,その程度では「大逆転」には至らない.やはり,日本全体が危なくなる規模の地変が必要である.これだと十分に「大逆転」ガ可能であろう. そういう中で,「戦争」という挑発を行ったわけである.それは立派に役目を果たしたと言えるだろう.論壇とネット世界が大騒ぎをしたからである.『希望は日本沈没』では見向きもされないだろう.目論見どおり.それについては何も言うまい.作戦大成功はご同慶の至り.しかし,戦争の実態とはどういうものか,彼の中には何にも考察がない.彼が言うのは,次のようなことである. 『戦争は、それ自体が不幸を生み出すものの、硬直化した社会を再び円滑に流動させるための「必要悪」ではないのか。戦争がなくなれば社会が硬直化、すなわち格差が発生し、一部の人に不幸を押しつけることになる。ならば、戦争がなく、同時に皆が幸福な社会というのは、夢物語にすぎないのだろうか?』 ここには一見,重要と誤解しそうな観点が含まれている.つまり,戦争というものは社会を流動化させるために(硬直化させないために)必要なのかも知れない,ということである.だけど昔から,”生物(人間に限らず)はたくさん増えすぎたら数を減らす作用(自滅など)が働くのさ”,という一種の無常観・突き放した考え,というものが存在しており,それとなんら替わることはない理屈に過ぎない. もしそれが一種の宿命だとするといやでもそれはやって来る.逆に,希望してもならない時はならない.それを望んでも無駄なのである.やるとすれば人為的に行う必要がある.しかし,「希望は戦争」というのは自然にそうなって欲しい,という意味だろう.ならばそれは,格差社会がなくなって欲しい,という希望でも同じこと.どうしてそういう希望にはならないのであろうか??? 社会が硬直化するのと緊張関係の極限で自壊する(戦争など)のとどちらが望ましいのだろうか.論理的に言えば,その問いに対する正解は自明ではないはずである.従って,『硬直化した社会を再び円滑に流動させるため』という必要悪など存在しない.『戦争で自壊するより硬直化がマシ』という論理だって成立するのである.人間の知性はその両方とも回避しようと努力を続けるのだろうと思う. それから,戦争が希望だという理由の意味で『今の経済的弱者の状態で死ぬよりも戦争で死んだ方がよい』と書いている.その論拠は次のようなものである. 『・・・今のまま(首を吊って)死んでも誰も同情してくれないだろう.「自己責任」「負け犬」というレッテルを張られながら、無念のままに死ぬことになる』, 『「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる』 まだいろいろ書いてはいるが,所詮このようなことでしかない.論争の行きがかり,と言う面はあるだろうが,『希望は戦争』という言葉の重みに耐えるものでは決してないだろう.私はやはりセンセーションを期待した文言だと判断する.要するに,不純だ,ということである.(ただし,その所為で,飛躍的に「訴え」の効果は上がった,と言うことは別問題とする.) 長くなったのでここでいったん切ります.次は 2.自己責任と社会的責任について です.ここまではタイトルとの関連が現れず,すみません.
by papillon9999
| 2007-11-28 12:31
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Comments(11)
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ご紹介ありがとうございました。
またご紹介頂いた土曜日の会には参加しようと思っています。 機会があれば赤木さんと話してみたいと思います。
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赤木氏が「自己責任」と「社会的責任」の区別が出来ていないという指摘には、まったく同意です。氏の論説の本質を実にうまく表現されていると思います。
「自己責任」と「社会的責任」とをpapillonさんがどのように料理されるのか、続きが楽しみですが、1.を読んで感じたことをひとつだけ。 つまるところ、赤木氏は「自己責任」と「社会的責任」とは区別できないのだ、と叫んでいるのではないのでしょうか? 少なくとも彼自身は、自分をそういう存在だと規定しているように私には思えます。そして、彼のそういう規定の仕方に共感する若者が多い、ということは、「自己責任」と「社会的責任」を区別できない若者が多いということです。 しかし考えてみるに、これは若者たちだけの問題でしょうか? 赤木氏はいわゆる「失われた世代」の人ですが、その世代以前の人たち、赤木氏に言わせれば既得権益を獲得した人たちは、「自己責任」と「社会的責任」を区別できていたのでしょうか? 私にはそうは思われません。 彼がけっきょく、「自己責任」 ですかというのは、そこを衝いているのだ思います。あなた方にはその区別は問われていなかったのに、私たちにだけは問うのですか、と。 ![]()
赤木氏にそのように問われて、はっきりと返答できる者は少ないでしょう。なぜなら、日本社会はその区別が曖昧でも許された社会だったからです。いまだに官僚や一部の企業の正社員たちはそうした社会のなかにいます(これを私は以前、「エスタブリッシュ」と表現しました)が、それは底辺から崩れ出している。それがいわゆる格差社会でしょう。
そうした意味では、彼の指摘は格差社会の正鵠を射ていると考えます。papillonさんは赤木氏と内田氏の類似性を指摘されていますが、赤木氏からしてみれば、そういうpapillonさんこそ内田氏と似ていると言われはしますまいか? 「自己責任」と「社会的責任」の区別の責任を、社会にではなく個人に問うているという点で(あ、これは2.を読んでみないとはっきりと断じることができませんが)。 内田格差論は、「格差なんてないんだよ」というのを個の感じ方に責任をおいて問うているから非難されているのでしょう。 ![]()
おはようございます。
>お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる >所詮このようなことでしかない まったくです。「死生観」がこんな程度で語られることに力が抜けます。 赤木君がアンチテーゼとして発していればいいのですが……。 今週土曜日に運動体が赤木君を呼んで討論会をやるようです。 在京の方で興味がある方はどうぞ。TB送らさせて頂きました。 ![]()
内田流と赤木風戦争待望論は、どちらも経験や知識の乏しい若者をターゲットにした『言葉遊び』として、同質なものを感じる。大向こう(マスコミ又は若者)のうけ狙い。
方や内田流は、新自由主義社会での格差の本質論を語らず、 方や赤木風戦争待望論は、帝国主義的国民国家での戦争の本質論を語ろうとしない。 どちらも真実の断片を語っている訳ですが、其処が危険。 本当の一流の詐欺師や煽動者、陰謀家は、嘘で大衆を騙さ無い。嘘で人を騙すのは二流以下のペテン師の手口。 何故なら嘘で騙すと瞬間しか騙せないが、真実で騙すと大衆を長期間騙せる。 それが証拠に、真実の断片でだました小泉構造改革の嘘は未だに信じている国民がいる。 資本主義社会は、生産力の向上はすべての制度に優先した優れた仕組みで有るが、いかんせん、造り過ぎて消費が追いつかない。 アメリカ式大量生産大量消費の浪費型でもやっぱり追いつかない。 150年前にマルクスが指摘したように究極の消費である戦争が今でも社会のリフレッシュとして有効になる。 ![]()
布引さん、こんにちは。
>どちらも真実の断片を語っている訳ですが、其処が危険。 片や青臭い叫びが真実の一片に届いた赤木風と、片や生臭坊主の確信犯的生臭説教の内田流とが、似通った響きをもつ。なんとまあ、皮肉な現象ですが、内田流は赤木風ほど薄っぺらいものだとは思いません。 思うに赤木風の最大の難点は、自らの自己確認のためには他者を傷つけても良いとしている点です。「戦争が希望」とはそれに他ならず、その発想は勝ち組と名乗る自己中な連中と変わらないという点にある。赤木風は結局、自己撞着、負け犬の遠吠えでしょう。 さらにもうひとつは、戦争が固定化した社会を流動化させると思い込んでいること。このあたり、戦国時代の「下克上」のあたりの古臭い戦争観でしかなく、近代以降の戦争がむしろ社会を固定化させるために引き起こされるものだということ理解していれば、どう考えても戦争と希望とは結びつきようがないはずなんですが。 かのような論説が一流なはずの言論誌に堂々と掲載され、議論を巻き起こすという現象そのものが、私には嘆かわしく思われてしまいます。 ![]()
>かのような論説が一流なはずの言論誌に堂々と掲載され、議論を巻き起こすという現象そのものが、私には嘆かわしい。
結論はこれで決まりでしょう。 内田流なんかは、昔なら中学生の議論。赤木風などに至っては酔っ払いの戯言程度。議論するだけでも腹立たしい。 国民全部を未曾有の悲劇に導いた、岸信介や鹿島守之助、児玉 誉士夫などが戦争で大儲けしたことを知ってしまった一部没落中間層が『今度戦争があったら、うまく立ち回って大儲けする』と喋る馬鹿話とソックリ。 岸などが大儲けできたのは戦争のカラクリ、仕掛けを最初から知っていたから。無敗の神国や鬼畜米英や八紘一宇を信じていた人で儲けた者は一人もいない。 戦争ですべてを失ってから、戦後自分が騙されていた事実にやっと気がつき『今度は上手く立ち回って儲ける』と考える人。 この人は間違いなく次回も大損する。 金融詐欺やリホーム詐欺に騙される被害者は『今度は騙されないぞ』と思っても、一度では懲りず何回でも騙されるようです。
愚樵さん
<赤木氏は「自己責任」と「社会的責任」とは区別できないのだ、と叫んでいる> <「自己責任」と「社会的責任」の区別の責任を、社会にではなく個人に問うているという点> これらについては私はまだ咀嚼できていません.続編の記事に書こうと思っているのですが,あるいは愚樵さんの思っておられることとだいぶずれがあるかもしれません.もう少し単純に考えています.愚樵さんの感じ方は一ひねりグイっと違う所に来ますね\(^o^)/ついていくのに骨が折れます
dr.stoneflyさん
<「死生観」がこんな程度で語られることに力が抜けます> そうですね.「戦争」という言葉の重みに耐えられません.こういうことから,慎太郎への批評のような,『甘ったれ大人』でしかないような気がしたのです.格差の被害者にしては軽すぎる.この私の感じ方は,新自由主義者の言う「自己責任」を強いているのとは違う,と自分では思っています.
布引さん
<戦争の本質論を語ろうとしない> こういうことを語る言葉を持っていない,ということを私は『社会的責任』を果たしていない,と考えるわけです.続編に書こうと思っている一部です. それから,赤木さんがフリーターを脱出できたとしたら,その後どうするのであろうか,ということに非常に興味・関心があります.格差被害者のために彼は何をするだろうか??? 真に優秀な詐欺師は必ず本当のことを言うそうですね.肝心の所だけウソ.ウソはほんの一部だけ.
再び愚樵さん
<自らの自己確認のためには他者を傷つけても良いとしている点> <戦争が固定化した社会を流動化させると思い込んでいること> これらは貴重なご指摘だと思います.ありがとうございました. >かのような論説が一流なはずの・・・・ 布引さんとまったく同じく,「論座」に対する幻滅を感じるのみです. 再び布引さん 我々は岸なんかと違って,次の戦争でも大もうけなんかできるはずはない,よく納得できます. |