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信念と美学(2) 臨機応変とフリーズ
2007年 11月 12日
戦前の進歩的知識人たちが,なぜ,またどのようにして戦争を自らに許して行ったのか,というようなことに連なる考察をしている.そこには国家権力への恐怖のために,面従腹背のような形でやむなく(表面的にだけ)随き従った,というのとは別の構図が存在しているように思えてならない.無論,そういう人も少なからずいたことは間違いないが,もっと多くの人は,強制される前に自ら進んで戦争遂行論を作った【注1】のではないだろうか.
先の記事では,ファシズムはロマンの装いを身に纏って現れることを書いた.戦争は決して戦争遂行を目的としては出てこないと思う.『国家の大義』,『アジア人民を救うその中心となるのだ(八紘一宇)』,・・といった大ロマンが掲げられる.戦争はこの大ロマンを実現するためにもし生じたとしたらやむを得ないものだ,という形を取るのである.あくまでも戦争そのものが目的ではない,という形.ところが,真に戦争をやりたい勢力が必ずいて,大ロマンを仕掛ける張本人であることも多い.そうでなければ悪利用.支配欲と経済欲で全国民を道連れにしようとするのだ.その際に,国民全体を動かすには宗教も必要であって,『聖戦』の衣をまとうことが不可欠である. ここで大きな問題が一つ.大ロマンそのものには,戦争と結びつく(かもしれない)ことが最初にはわからないことである.大ロマンを実現しようとするいろいろな動き,これは戦争そのものを志向してはいないことが多い(つまり戦争への意図は単純でわかりやすいものではない,という意味).そのうち,戦争そのものを美しいものとするイメージ戦略が走り出すのである. 例えば(あまりいい例ではないが)アフガンの平和実現.『決して戦争に行くのではない.しかし,平和実現のための一過程として自衛隊派遣による治安維持は必要だ』,というキャンペーンを考えよう.多くの人は『戦争はいやだがアフガン平和実現のためにはこれも仕方ないな』と考える(としよう). それで,自衛隊派遣ができる法律を整備したとする.そして今回はこれで何事もなかったとする.しかし,これで戦争への十分な地ならしはできたのである.現在の支配者層はそれで十分.いつの日か,KやAやNのような売国総理が出現した時に,この道ならしがとても素晴らしい武器になるのだ.憲法9条の精神はこうして少しずつ崩れて,ついには最初の突破口を開いた人の意思に関係なく,戦争できる国へ変貌していくのだ.何が突破口になるかわからないのである. 以上のような状況を想定した上で,話を進める.先の記事で,『国全体がロマン実現にまい進して行くようになったら,自ら自分を騙し始めるに違いない』.『捏造論理【注2】を構築し始めるのだ』と書いた.銘記すべきは,こういうこと(いつの間にか戦争推進論者になること)は自分では意識してないはずなのだ.自分を騙し始めるきっかけは恐怖かもしれないしロマンに掻き立てられでのものかもしれない.しかし,心はすぐに恐怖に負けたことを忘れてしまう.または認識を閉ざしてしまう.そしていつかの時点で,かつての自分の立場,戦争は決してやってはいけない,という主張をなしている人に対し,逆に物凄い攻撃を加えるようになるのだ. まあ,このようなストーリーは非常に単純化したものであるが,大きくは外れていまい.そうだとすると,よほどの人でないとだれにも起りうるということを自覚しなければならない.(私自身,自信はない.国家権力の恐怖に曝されたらすぐへたれるだろう.しかし,せめて面従腹背ぐらいのポジションには留まりたいものだ.) ここでようやくこの記事の本題に移る.恐怖でヒヨルのは別として,こういう大ロマンに惑わされて,自分自身を騙すための捏造論理に陥らないためにはどうしたらいいのか,ということである.そのためにはどういうことが必要なのか.実は簡単(言うは).『絶対に憲法9条に反するようなことは認めない』という堅い信念を持つことである.何があっても,どんな事態が起きようとも.このとき,懸命に想像力を働かせなければならない.どんな蟻がどんな小さな穴を掘るかわからないのだからとても難しい. しかし,ここでジレンマが生じる.一方が大ロマンの実現に信念を持って命を懸ける,対して戦争に繋がることをしっかりと阻止するために,憲法9条の精神で反戦への揺るがない信念を以って対峙する,ということになる.ということはすなわち,双方がフリーズしてしまうのである【注3】. 私からすると,戦争に繋がりかねない信念は,非常に怖いものである.『心をフリーズさせてなんと不健全な!』と思うだろう.『これは新興宗教に嵌ったのと同じだ!』と考える.ところが逆から見ると,憲法9条への信念だってフリーズそのものである.自分を騙し始める捏造論理の構築はこの信念がフリーズしていなかったためではないか!と.となれば,私のフリーズは良いが戦争に繋がる信念のフリーズはいけない,ということになるが,これはジレンマであろう. 私のフリーズは良い,というのは一体誰が決めるのだろう? 一般的にいって,何事もフリーズすることは良くないことのほうが多い.例えば役人の形式主義.国籍問題で強制送還,という大きな問題から,たとえ1円の請求でも80円の郵便料を使って督促状を送る矛盾とか,いくらでも出てくるだろう.また,あの杉原千畝さんのユダヤ人逃亡への手助けだってフリーズしてたらできないし,あの特攻隊に関してだって,敗戦間際の頃,佐世保市南風崎(ハウステンボスのすぐ近くらしい)という所に特攻隊の少年兵二百名?をかくまった軍人がいたそうだ.こういうこともフリーズした精神からは絶対に出てこないだろう. 一方,フリーズに対するものとして,ここでは臨機応変(フレキシブル),ということで考える.こちらは普通,良いイメージが想起される.杉原氏や特攻兵を匿ったことはまさに臨機応変の機智であろう.しかし,自分を騙す捏造論理の構築に取り掛かるのもこのフレキシブル精神なのではないか.捏造論理が甘く甘く誘惑するのに負けてしまう元凶,あるいは隠れ蓑なのだと思えるのである. 結局,何なのだろう?『フリーズはいけない』というキーワードでくくってはならないのだろうか.つまり,中にはフリーズしてもいいこともある,というべきなのか.すると,物事一つ一つを十分に『フレキシブル』に吟味しなければならない.しかし,上に書いたようにその態度が捏造論理構築の元凶なのである.右からの戦争への抵抗力はあっても左からの暴力革命への抵抗力はあるのか.新興宗教へのフリーズと憲法9条へのフリーズはどこが違うのだろう. 一応言える事は,何事も表面上の文字面ではなくその精神で考えなければならない,ということだろう.しかし,これは正しいけれども何も言ってないことに等しい(キーワードそのもので判断してはいけない,という重要な意味を含むけれども).結局は選択の問題となるしかないのだろうと思う.その選択の基準とは,ずっと以前に書いたことがあるような気がするが,それは前頭葉に刻まれた精神,言い換えれば結局はその人の『情』なのではないだろうか.ここで私の今の結論に到達したような気がする.『前頭葉の情』で以って,『このフリーズは良いがあのフリーズは悪い』,と決めざるを得ない,という地点である.果たしてそれでよいか・・・ 信念とフリーズという問題は愚樵さんとのやり取りの中で私の重要なテーマになった.結局は,フリーズそのものがいけない,という言い方は適当ではない,ということになった.考えてみれば『フリーズはいけない』というようにフリーズしてもいけないのだろう(なんのこっちゃ!) 【注1】 私はこういうとき,すぐ一人の評論家を思い浮かべる.田原某である.本人は新自由主義者の手先となって迎合理論を捏造していることを自覚しているだろうか.そして軽蔑されていることに気がついているのだろうか.有名になったら誰でも敵はできるさ,くらいの考えなんだろうか. 【注2】 捏造論理:ちゃんと自分自身に向き合って考えたら,どうやっても自分自身納得できないことがわかっているのだけど,そこには目をつぶって,自分を騙し世間・権力に迎合するために作り上げた似非論理のこと.これを作り始める事は私の言う『智の暴走』の一形態である. 【注3】 こういう対立を不毛の対立と見て心を痛める人もいるが,その立場はやはり戦争への妥協となるだろう.
by papillon9999
| 2007-11-12 00:02
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Comments(9)
記事に書き忘れたのでここに書きます.戦後,ある裁判官が配給制度の法律を守って食糧を闇市から手に入れず.とうとう餓死した,という事件があったそうです.子供の頃,有名な話だったけど.こういうことはフリーズそのものですが,私は心からこの人に深い敬意を捧げます.この人の名前も私は知らないのが残念です.どなたかご存知ないですか?
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ご意見拝見した。私もpapillonさんの意見に全面賛成です。
拙ブログで取り上げたことのある内山節氏(在野の哲学家と言われていましたが、最近、大学で職を得たようです)は、「思想はローカルなものでしかありえない」と言っています。これはpapillonさんの出した結論 >『前頭葉の情』で以って,『このフリーズは良いがあのフリーズは悪い』,と決めざるを得ない というのと同様なのだと思います。「思想」を「フリーズ」とするなら「ローカル」とは「前頭葉に刻まれた精神=情」ということになる。フリーズするにしても(思想を組み立てるにしても)、それは個人が各々の経験(ローカルなもの)から出てくる「情」に裏打ちされたものでなければ、それは真に「思想」とは言えない。そういうことになると思います。 また、この「フリーズ」は内田氏論評の文脈で言えば「外形的な記号」ということになります。
愚樵さん コメントありがとうございます.前頭葉の話,愚樵さんに認めていただいて大変嬉しいです.
「思想はローカルなものでしかありえない」ということが,ほんとの実感という意味でわかった気がします.ご指摘ありがとうございました. ![]()
また、『9条下の武力行使』の文脈で言いますと、この「フリーズ」とは「主権概念」ということになります。“9条を破棄して戦争すべき”という主張も“9条にそって一切の武力行使もまかりならん”という主張も、「主権」という場所で「フリーズ」している。つまり国家に個人は国家の決定(それが民主主義的になされたものであろうがなかろうが)に従わなければならないとする位置で立ち止まってしまっていると思うわけです。
ある個人が、内戦で苦しむ人たちに救いの手を差し伸べたいと考える。この「考え」はその人個人のローカルな経験からでてくる「情」であるわけです。そうした「情」にそれ以上の理由など必要ない。 個人がそう願い行動しようとしても一人では無力ですから、そこを国家なりが助力する。同じような思想を持つ人を集め組織し、必要な装備も与え、派遣する。その外形的記号は「軍隊」という姿かもしれませんが、この「軍隊」は主権の発動ではないわけです。だから9条には反しない。国家の命令上官の命令に絶対服従の軍隊組織ではない。あくまで個人のローカルな思想がその行動の源であり、だから、こうした「軍隊」には命令拒否権は絶対に必要な要件になります。
そうなのです.ここまで来ると,ローカルなものの違いが現れて来そうです.『内戦で苦しむ人たちに救いの手を差し伸べたいと考える』という部分は愚樵さんの『ロマン』でしょう.それは私も同じですが,それを実現しようとした時に,私の前頭葉は『解決策は実力部隊派遣であってはいけない』と告げます.
ご提案は『義勇軍』の組織ですか?そうではないでしょう.やはり,訓練されたもの,端的にいえばやはり自衛隊そのものでないと,何の実効も上がらないはずです. それを解決しようとする愚樵さんの『個人論』,つまり実質軍隊派遣のために個人としての自由意志を以って参加させる,という論理構築,それこそが私には『暴走』と映ります. かといって,苦しんでいる人たちを見捨てよ,というわけではありません.実力部隊を派遣するには記事に書いたような慎重なプロセスが必要だと思うわけです. 現時点ではその組織化は間に合いませんが,民生的な支援(どこまで実効あることができるかわかりませんが)は精一杯やるべきです. そして次の内戦を生まないために全力を挙げることです. ![]()
探しものはぐるぐる。"戦後 餓死 裁判官"の三語をくべると出てきます。
山口良忠さんですね.ありがとうございます.名前は重要と思います.汚名と讃美,いずれも必要だと.政府審議委員達の無責任な言動も,唯一の歯止めは後世,汚名として残らないようにすること,でしかありません.それを恥だと思わない人には歯止めにはなりませんが,後世,一族は汚名を着なければなりません.今は責任が希薄でそういうことができていません.
讃美としての名前もその逆として必要です. ![]()
大貫恵美子「ねじ曲げられた桜」岩波は特攻隊員の手記を基礎に,「桜」というシンボルを扱った好著です.当時としては西洋文化に誰よりも通じていて,戦争にはむしろ批判的だった第1級の学生たちが,ゴミのように使い捨てられた.
しかし家族への最後の手紙にも,たぶん本音は書けなかったでしょう.手紙は検閲されるでしょうから,あとあと家族が後指をさされるようになるようなことは書けない.
桜ねぇ・・そうロマンのシンボルも必要なんですね.何かが.選ばれた桜は可哀想・・ぱっと散るところがぴったりだったんでしょう.きれいに潔く散るイメージ.実際にははらわたが飛び出してのた打ち回ってしななければならないのに・・いや,それよりも餓死ですよ.食うものがなくなって餓死した”戦死”.でも残された者はぱっときれいに散った,と思い込まずにはいられません.
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