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左翼護憲派に臆病さが必要な理由=知の暴走を怖れよ
2007年 09月 03日
この記事の最初のタイトルは 『左翼護憲派が臆病な理由=知の暴走への怖れ』でした.改題しても記事の中身は変えてないので,あるいは少しそぐわない部分が生じているかもしれません.ご承知おきください.
この記事のタイトルは不完全で,”何に対して”臆病なのか,という情報が入っていない.これは題目が長くなりすぎるのを避けた結果であり,本当は「左翼護憲派が改憲や核武装等に関する議論に臆病な理由」とでもしたかったのである. というのは,左翼護憲派に距離を置いて見ることのできる人たちは,左翼護憲派が後生大事に抱え込んだ「改憲反対」のワンフレーズに硬直性(ここではフリーズと呼ぶ)を見ていると思うからだ. フリーズしていることには,例えば9条だけではなく,憲法の他の部分の検討とか,中国の核武装に対する日本の核武装論議,日米安保条約に代わる安全保障論議,などいろいろあるだろう. このようなテーマに対し,一般の左翼護憲派は正面からの議論を避けているように見える.「T・N君の日記」さんが愚樵さんのところでのコメントに,『左の人は理性的で真面目なので、「分断」に対する危機意識を常に持っていて、いつもそう思って歩み寄ろうとする』とか,『聞く耳を持っている』と書かれていたが(激しく同意),それにも拘らず,こと憲法9条や軍備等の再検討の話になると途端にフリーズしてしまう傾向を私自身も感じるのである.『とにかく駄目なものは駄目』というあの態度だ. ここで,初めに私自身の立場を書いておかねばならないだろう.私自身は左翼ではないと思っている.(だって,マルクスの勉強なんかちっともしてないもん・・えへっ^^;) ただ,非常に強いシンパシーは抱いているといえよう.それにも拘らずいい政策が実現するようであれば左翼政権にはこだわっていない.(といっても他の政権では可能性は薄いと見ている.でも何と複雑な文章!意味わかった?) この記事では議論を避けたがる理由を考えてみたい.私は以下のように,これには一理あると考えている. 一つは『同じ土俵に乗ることへの警戒』,あと一つは,『知が暴走することへの怖れ』ということである.これら二つは無論,関連しあっているが,まず,一つ目を考えてみよう. 『同じ土俵に乗ることへの警戒』 たとえば9条問題を例にとって考えてみる.憲法9条への攻撃理由の最大は(押し付け論を上回って),いきなりの『外国から攻めて来られたらどうする』という詰問であろう.これに対する考察はずっと以前の記事(個人の武装と国の武装)に書いているが,この問いそのものが,すでに9条が前提としている状況をまったく無視しているのだ. 憲法は『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意』,『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において』,等々と謳っている,すなわち,9条の精神が通用するように国際社会に働きかけなければならないのである.そのような努力は現実には一切なされていない.そういう状況を一切無視して,『『外国から攻めて来られたらどうする』と責められても議論のしようがないのは明らかである.(それで口をもごもごしているうちに,「ほうらやっぱり9条を改正しなければ対応できないではないか」,という結論に導かれるのだ.) ただし,この前提には問題があることも確かである.前出の記事にも書いたように,現憲法が最も怖れているのが,我が国の支配者の暴走,なのである.この点について,我が憲法は我が国の指導者たちに対しては完璧なる性悪説を貫き,あちこちに厳重な鍵を何重にもかけたのだ. ところが,一方において,その分,現実の国際社会で『ならず者国家が現れたらどうする』というような観点が希薄,と言えなくもない.だから,国際治安維持活動のような強制力を持った組織について,別の記事にも書いたように国際的に考えなくてはいけないのかもしれないのである.しかし,今の土俵の上で議論するとすれば決してそういう方向に議論は進まない.そして結局は次の項目のように知が暴走してしまって,取り返しの付かないことになる恐れが強い.国際的強制力の議論は,それにふさわしい土俵を設けてから行わなければならない. 『知の暴走を怖れる』 一番目の警戒にも拘らず,あえて相手の土俵に乗って議論のテーブルに着いたとしよう.そして,そこでどういうことが起こるか想像してみよう.そこでの議論は多くの場合,『ディベート』のような形になる可能性が高い. まず怖いのはこの点である.優れた結論に導く努力が双方に求められるにも拘らず,議論は勢いに乗ってどんどん変形するだろう.そして結論として,ムード的に勝った方に結論がなびいていく.あるいは,俗情に訴え俗情を刺激した方が論理的正当性よりも勝ちを得やすい.こういう場合,元の精神がきちんと活かされている保証はまったくないのである. ところが,もっと恐ろしいのは,ディベートではなくて善意の議論でもそういうことが起きる可能性があることである.身近でも結構あると思うのだが,よく白熱した会議で,全体の熱気の作用であることが決まることがある.ところが,そこで決定したことに対して,そこにいなかった人からあとで『何でそんなばかな結論になったのだ!』と非難されることがあるはずだ.外から冷静に見るとわかることでも,その中ではなかなか気がつきにくい. これは『議論の暴走』というべきだろうが,そこでは論理(もどきの場合もある)を用いて議論が展開していくので,やはり知を使っているのである.私はこれこそを『知の暴走』と呼びたい. こういう意味で『知』が暴走を始めると,全体の持って行きようによっては,9条改悪はおろか殺人さえも許容する結論が出るかもしれないのである.私は戦前の知識人たちの恥ずべき『転向』も,この病理によって良心の呵責を感じなくて済んだのではないかと思っている.(現代の田原某,その他,かつて進歩的ポーズを取っていた御用評論家・学者たちもそうなのかもしれない.) このように,デリケートな議論に安易に乗っかってはいけない,ということを私は言いたい.これは,しかし,外国が攻めてきたらどうする,という問いを放っておいていい,ということではない.そういうことを強靭に考える努力は必要なのである. ついでながら,小沢一郎のテロ特措法延長反対.この理論的根拠は,『国連のオーソライズ』の有無であったかと思う.しかし,天木直人氏も指摘していたように思うが,これも実は危険だと思う.オーソライズなんてものはやろうと思えばどうにかできるのではないだろうか.するとその土俵に乗っているため,行きがかり上,軍隊派遣という事態に突入するかもしれないのだ.これも典型的な知の暴走(の一形態)と私は考える. これを防ぐにはどうすればいいのだろうか.最後にこれを考えよう.知の暴走を防ぐためには何事も表面上の文字面ではなくその精神で考えることだと思う.しかし,言うは易く実際はきわめて困難. 非常に有力なことが,自分の前頭葉に,この精神をしっかり刻み込むことだ.これも以前の記事(宗教と人間の脳との関係④ 宗教基準と良心)に書いたが,人間の性善説をサポートする生理的反応が,この前頭葉に生じ,蓄えられるのだ.そこにしっかりと刻み込むこと.そこに刻み込んだことは,一時の熱気でフラフラさせないこと,それを書き換えるときは,それを上書きするにふさわしいことが出現したときだけにする,それを肝に銘じておくことだけである.(前頭葉と肝に銘じておけば間違いない.^o^) ところで,この結論は何かと似てないだろうか.そう,フリーズさせることにほかならないではないか.いや違う,信念か? ということで,次にはフリーズと信念について考えなければならないようだ.
by papillon9999
| 2007-09-03 15:40
|
Comments(44)
『知の暴走を怖れる』というセンテンスで思い起こしたのが、例のテサロニケ氏を巡る騒動です。テサロニケ氏が暴走し、周囲がそれについて行けなくなった。テサロニケ氏は「9条の会」のあり方を攻撃していましたが、あの態度が「知の暴走」だったんでしょう。しかし、「9条の会」を支持する人たちは別の土俵を想定していた。つまり「知」によって9条の正当性を確立することではなくて、「情」による支持を取り付けることで9条を守る。
そういうことではなかったでしょうか。
0
そうですね.これもいい例だと思います.特殊なものがあるとすれば,トップが『論理のもてあそび』で暴走しようとしたのを,全体が見抜いたことです.権力の暴走は別として,『衆愚』の方が暴走することが多いということを私の記事では想定しています.しかし,どちらにしても『知の暴走』と捉えたいです.
そして,精神を前頭葉に刻み込む,ということが「情」に相当するのですね. このほか,本文中に書き忘れましたが(あとで追加しようかな),例えば早雲さんの記事でよく紹介されるような,例えば『人間のクローン作り』,に走るようなことも『知の暴走』と言いたいです.
憲法9条が人類が到達した『知』の最高峰であるのは間違いないが『突然攻めてきたら』論の単純性に対して『悪いものは悪い』と同じ単純性で対抗しようとする愚は慎むべきでしょう。
『知』とは一言で言いきれるほど単純なものではない。 一言ですむなら小学一年生の一学期ですべての真理が理解できることになる。 人類600万年の英知を知る為には長い長い学習が必要で、十分に時間をかける必要がある。 短いキャッチコピーに頼るのはテレビ報道の影響でしょうか。? 以前護憲派コメンテーターが改憲派から『一言で言いなさい。一言で』と攻め立てられているのを目撃しました。 一言で説明できるほど政治や経済は単純には出来ていません。テレビ文化における知の衰退は目を覆うばかりの酷さ。
『知の衰退』の元凶はテレビなんでしょう.考えるより先に言葉を要求される.『一言で』を求める心性は,きっと善悪二分法につながっていくのでしょう.ブッシュの単純さに通じる.
それかといって,最近の書物のレベル低下も目を覆うばかりではありませんか?それを読むことが『知』だと思い込むレベルの低さ.私でも『書を捨てよ』といいたくなります.誰々さんはこういった,式の議論しかできない. それはともかく普段から『知』を磨いて,強靭で良質なものにしていく努力が護憲派にも必要ですね. テレビの最近で言えば馬鹿な弁護士たちもひどい.丸山?橋下?あのレベルはひどい.偶然見た時の論理の貧しさ.『知の衰退・貧困』 あの小泉ワンフレーズも天才的でしたが電通の入れ知恵がなかったのでしょうか.『自衛隊が行く所が非戦闘地域だ』という名言は東条英機の真似のようですね.
>『知』を磨いて,強靭で良質なものにしていく努力が護憲派にも必要
は痛感しています。 勝てるだけの理論的裏付けが絶対必要で『良いものは良い』では勝てない。 >『自衛隊が行く所が非戦闘地域だ』という名言は東条英機の真似 東条が言った場面は知りませんが、言いそうですね。 その存在自体がが空間(場所)を規定するのは神の所業で『神の軍隊』(皇軍)なら可能かもしれません。 小泉のこと言葉を最初聞いたときには世界中の紛争地に自衛隊を派遣すべき、さすればたちどころに戦闘は終結し平和が訪れる。自動的に人類絶対平和が実現。
『世界中の紛争地に自衛隊を派遣すべき、さすればたちどころに戦闘は終結し平和が訪れる』
小泉の言葉を聞いたとき,すぐさまこういうことを言えるような私になりたい!うらやましいです!(そのときでなくてもいい,自力でこのせりふをひねり出したかったです.もうここに書かれてしまった!) あの時,国会でこのように切り返せるような人がいたら,また歴史は違ったものになったことでしょうね!!
記事の中の>私自身は左翼ではないと思っている・・・・ですが右翼左翼は相対的な政治スタンスの位置関係で決ります。
極限まで右傾化した日本では、少し前、後藤田元官房長官が『私は昔、右翼だ反動だと呼ばれていたが、今では左翼と呼ばれている』と語っていた位ですから、papillonさんのような護憲でリベラルで革新政党支持なら間違いなく正真正銘の左翼と分類されます。 毎日新聞エラボートで政策的に一番近い政党が共産党だったでしょう。ちなみに私は一ポイント差で社民党でした。 マルクスの勉強はこの際、あまり関係なさそうです。
マルクス主義は皆大きな勘違いをしているようです。マルコスは終わったと言うような御馬鹿もいるが勘違いの典型例。
資本主義の総本山経団連の会長でも、マルコス主義の恩恵を受けているし幾らかは考え方にも採用している。 当たり前ですが、賃金とは何かとか、景気循環は何故起こるかとか、歴史はどの様に動くかとかは知らないと大きな損をする。 普通の一般的な日本の社会人なら本人はマルクス主義と意識していなても、マルクス主義的な思考方法をやっています。 papillonさんのような護憲リベラル派は、ほとんどマルクス主義と言っても差し支えない思考方法をとっていますよ。 大体このブログ記事の内容を63年前の特高警察が読めば国体変革を目指すpapillonを名乗る典型的なマルクス主義者と即座に断定するでしょう。
<正真正銘の左翼と分類>
そうですか,それではどうどうと左翼のお仲間に入らせてもらいます. と書いていたら次のコメントがありました. <マルクス主義と言っても差し支えない思考方法> あまり勉強してないのにそういう思考方法ができる,ということは,うーん,私の耳学問がすごいのか思考力がすごいのか・・・ いやいや,量子力学を知らなくてもパソコンを操れる,ということにすぎないのでしょうね.きっと. マルクス主義の歴史的役割はこれからも非常に重要だと思っています.
マルクス主義の歴史的役割で,思想(世界観)の分野では対キリスト教でしょう。
今までの欧米の一般的庶民感覚では、戦うべき最悪の敵は異教徒(ムスリム、ユダヤ)ではなく無神論者(コミュニスト)です。(ブッシュの対テロ戦争は宗教戦争で、冷戦時の共産主義に変へてイスラムを主敵にした) ムスリム戦闘員を捕虜でも被告でもないそれ以下の存在(人間以下)としてグアンタナモに収容。 此れは以前の『人はすべて宗教(神)を知る』『人と動物の違いは神の存在の有無』故に『無神論者(コミュニスト)は動物か其れ以下の存在である』のイスラムバージョン 最大、最強の敵(無神論者)に勝利したと考えたジョージ・ブッシュは二番目の敵(ムスリム)の掃討にとりかかったのでしょう。
ブッシュの対テロ戦争の出発点9・11事件は数々の疑義があり、到底ブッシュ政権の発表どうりではありえません。
テロ対策等はこの事実を解明せずに前には進めません。 テロとは犯罪であり、犯罪はマトモな捜査による真相解明が必要であり、すべての人々を納得させるだけの証拠が必要です。 証拠もなしに一方的に犯罪者と認定して爆殺するなどは、其れこそテロ行為其のものでしょう。 イラク戦争の教訓を無視して考えを進めるべきではないでしょう。 世界の平和勢力の努力の結果次第では最悪のテロリストとはチェイニーやラムズフェルドである可能性が濃厚です。 対テロ戦争は宗教戦争の隠れ蓑(偽装)の可能性が存在する。
<最大、最強の敵(無神論者)>
うーん,こういう見方もありますね. <最悪のテロリストとはチェイニーやラムズフェルド> 激しく同意します. テロとの戦いの不合理さはひどいものです.テロを仕掛ける側は100回のうちたとえ1回でも成功すれば大成功です.しかし,防ぐ側は,99回防いでも1回でも失敗すれば大変な失敗です.これほど不公平な勝負はありません.
お二人のランデヴーにお邪魔して申し訳ありませんが。マルクスについて。
布引さんの仰るとおり、マルクスはいまだ終わっていません。私は少し前にそのような意味のことも書きましたが、あれは「マルクスでは夢を描けなくなった」ということで、私たちの中に広く浸透してしまったマルクスが全く無効になったという意味ではないんです。 ただ、やはりマルクスはもはや超克していかなければならない存在だと私は思っています。そういう意味で、早くマルクスには終止符を打たなければならない。しかしそれには、もう一度マルクスの再検証が必要なんでしょうけれども、それが充分になされているとは思えない(まだ私が知らないだけかもしれませんが)。 マルクスは巨大な山脈であるが故にその向こう側の風景を大きく遮り、また越えるのも難しい。そんな存在だと思います。
<マルクスはもはや超克していかなければならない存在>
おっしゃることはよくわかりました.私はこのような世の中になってきたので,労働者の連帯がより一層重要になると思うのです.しかし,昔のような労働運動ではなくて,弱者・庶民・共同体全体の連帯として新たな視点から再構成しなければならない,と思います.”マルクスの超克”という意味はそのような点も含んでいるのかもしれません. ”労働者”,”労働運動”を”庶民”,”共同体の活動?”というように置き換えれば愚樵さんのお考えに近くなるような気がするのですが・・
労働者、弱者は連帯しなければならない。それは現在でもそうですし、むしろ現在こそ連帯の重要性が高まっている。私もそう思いますし、ここはpapillonさんとも布引さんとも同意できると思うのです。
では、違いは何かということですが、それはその方法論なんです。マルクスを含む西洋思想が暗黙の前提としている、「世界をひとつの思想でまとめることが出来る」、「労働者をひとつの思想のものに結集させることが出来る」、こうした考えが誤りではないかと思っているのです。 こういうと、では、どうしたらいいのだ? バラバラで連帯などできるのか? という当然の疑問が湧いてきます。 これについてはまだ私は明確に答えることは出来ずにいるのですが、バラバラであることを前提にした上で連帯できる方法はあるに違いない、というのが現在の立場であるわけです。 そうしたことを考える途上が「知の暴走」とか「時間が育む情」とかいう言葉でもって、今、展開している“私の哲学”なんですが(汗)...。
ふむふむ,なんとなく噛み合ってきたような気がします・・
がしかし,その連帯においては,目的が経済的なものではない(とは限らない)というわけですね.別の価値観を以って連帯しよう,というのではないでしょうか. 経済学でいう上部構造と下部構造とは上下が逆ですが,人間の根っこの部分を通じ合えた連帯,社会共同体にしたい,ということなんでしょうか.きっと. 私(恐らく布引さんも)それは当然そういう社会を得たいのですが,そのためにはやはり経済的なものの裏づけがないと社会として成り立たない,という思いが強いのでしょう.やはり経済的側面を重視した方法論なのでしょうね. それはともかく,どのようなものになるか楽しみではあります.愚樵さん,がんばってみてください.
経済的な側面は、私の考えでもやはり土台の部分になります。とにかく人間は食わなければなりませんし、食って生き残ることが出来た上での共感なんです。食わずに共感せよ、なんてのはそれこそ旧日本陸軍と同等の精神論です。
ただ、その経済が貨幣で測定できるものばかりではない、と考えるわけです。貨幣で測定できなくても経済が成り立つ場、人間の根っこの部分で共感できるゆえに貨幣を必要としない場、それが共同体というわけなんです。 マルクスが最終的に目指した「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という社会は、マルクスが考えたように全地球規模で統一的には実現しえないだろうと。小さな共同体のなかでバラバラに実現されて、それを全地球規模で見たときにはその理想が実現されている。 では、そういうバラバラな共同体が出現し得る条件とは何か? ということです。
ふむふむ,だいぶ噛み合ってわかるようになってきました.
一つ残る疑問は,小さく分かれた共同体同士のインターアクションはどういうものになるのだろうという事ですが,どうなんでしょうか.出現しうる条件と裏表かもしれませんが.
>マルクスを含む西洋思想が暗黙の前提としている、「世界をひとつの思想でまとめることが出来る」
此の辺に大きな勘違いがあるようです。 『西洋思想の前提』ならこの命題は正しいが、しかし其処にコミュニズム(マルクス)も含めると話が違ってくる。共産党員も勿論含めるので話がややこしくなる。 マルクスは超克出来るような代物ではないのです。右翼も左翼も此の辺に大きな勘違いをしている。 マルクス主義(コミュニズム)は1つの思想なんかでは無い。 永久不変の絶対に正しい1つのマルクス主義(コミュニズム)は、そもそも存在しない。 マルクスは永久不変なものや、絶対に正しい1つのものの存在に疑問を持った。 すべてのものは変化し、進歩する可能性がある。此の辺は当時のダ-ウインやウォーレスの進化論の社会科学版でしょう。 二千数百年前の仏陀の考えにも通ずるし、日本の古典文学方丈記や平家物語の諸行無常や盛者必滅の無常観とも同じものです。
『永久不変の絶対に正しい1つのもの』の話はどこかで聞いた覚えがあるでしょう。
そうです。一神教です。 共産主義者の組織である共産党が結成されたのがヨーロッパで、ヨーロッパ社会では一神教的道徳や一神教的思考方法が骨の髄まで染み込んでいた。 結果、無神論のはずの共産党が一神教的な組織形態をとるに至った。 最初の共産党結成の地が、インドや中国あるいは日本なら、今日の共産党とは大きく違ったものになっていたでしょう。
<永久不変の絶対に正しい1つのマルクス主義(コミュニズム)は、そもそも存在しない>
共産党の指導者が押し付けたがることですね.スターリン主義となる元凶の. ”創造的”マルキシズムが,各時代,各地域で必要ということでしょうね. ところで,布引さん,マルクス主義によれば,上部構造も下部構造(つまり経済)によって影響されるのですよね.すると,愚樵さんの共同体なるものが,どのような経済構造を持つのか,ということが大変重要で,そのイメージをどのように描いておられるのか,愚樵さんにお聞きしたいところなんですが.
上部構造、下部構造なんて言葉を使うからマルクスは難しいなんて思われる。
一世紀程前の知識人の訳語ですから、ある程度難しくなるのはむべなるかな。 日本人なら昔から『衣食足りて礼節を知る』事は庶民の常識だった。大工の熊さん八っさんだって知っているのに内田某氏は知らなかったらしい。 一神教的共産党は私と自称コミュニスト氏とのペガサス・ブログ版での遣り取りを御覧になった人なら強く印象に残ったはずです。 あそこでは、私が色々日本の政治状況の問題点を提起したのに対して、自称コミュニスト氏は反論するつもりで共産党の規約や公式見解を列挙してコメント欄を埋め尽くす。 全く擦れ違いで議論に為っていない。 私が話し合いたいのは現実の日本の政治。事実の突合せなら一致点は必ず出てくる。 しかし教理問答は絶対に一致点は出てきません。此れは大昔の異端審問で証明済みです。
上部構造、下部構造なんて言わなくても,昔から『衣食足りて礼節を知る』で,そんなこと当たり前なんですね.実に単純.庶民の経済が豊かになればあとは自ずからついてくる,ということですね.すべてはそこから始まる.新しい文化も.
>共同体なるものが,どのような経済構造を持つのか
はい。大変に重要な問題ですね。そのことは書かねばなりません。 実は、昔、一度書いたことがあるのです。「エンとエコ」と題して、旧ブログの方へ。 もっとも理想なのは近代以前の自給自足的贈与経済ですが、もはやそこへ戻ることは出来ないでしょう。とするならば、貨幣の暴力をなんとか減殺する方向へ社会の制度をもっていかなければならない。そういう考えを元に書いたのが、その記事なんです。 とはいえ、本当にそうした制度設計でいいのか、今一度考察中です。あの頃とは少し考え方も違っていますし。考えがもう少しまとまったら、また新たにエントリーする予定です。 ところで、『衣食足りて礼節を知る』ですが、残念ながら今の日本にはそれは当てはまらないでしょう。『衣食溢れて礼節忘れる』が今の日本だと思います。
『衣食足りて礼節を知る』のはあくまで我々庶民限定の倫理観でしょう。
いわゆるエスタブリッシュメントには全く別の倫理観やルールが存在する。 両者に共通のルールや倫理観を求めるから無理が生じる。最初から別だと思えば答えは出てくる。 ライオンとカモシカには別々の倫理やルールが必要なのですよ。 日本は階級社会なのです。階級を無視した論議は成り立ちません。そして国家を支配している階級の倫理観が、支配されている下層の庶民階級の倫理観にも大きな影響を及ぼすのも当然の法則です。 『衣食溢れて礼節忘れる』は当然で、銀の匙をくわえて生まれてきた特権階級が、衣食が足りたぐらいで礼節を知るはずが有りません。 衣食が足りない者が足りた時の話と、足り過ぎている者がモット欲しがって礼節を忘れる話は似ているようで別の次元の話です。
すべてに通用する『永久不変の絶対に正しい1つのもの』を求めるから失敗する。
遍く世界を束ねる絶対に正しいモノが『有る』と言う考えも間違いなら、『無い』と言う考えも間違いで、時間と空間と対象を正確に限定して論議しなければ決して正しい答えは出てこない。 それが社会科学の出発点ですね。
『衣食溢れて礼節忘れる』
ここら辺が,愚樵さんと立ち位置が違っているのですね.衣食がどこまであれば十分か,というのは確かにあいまいですが,少なくとも現在の格差社会では餓死者もでるくらいの貧困が生じています. では格差社会以前ではどうであったか.そこには公害病を生み出す企業論理が存在し,利権に群がる官僚と族議員達がいたわけです.その時代にも恵まれない,底辺部の人々はいたわけですが,そこではまた別の是正要求の仕方がありました.現在はそれがもっとひどくなり,エイリアンが進入してきたような感じです.闘いの意味が全く異なっている,と感じています.
私とpapillonさんや布引さんの認識の違いは、『衣食溢れて礼節忘れる』が広がっている範囲についてだと思います。
布引さんは『衣食溢れて~』は特権階級のものだと仰いましたが、私は少し前まで「中流」といった階級、なかんずくその子どもたちにまで浸透してしまっていると思っています(内田流はその指摘だと読んでいます)。そして、『礼節を忘れた』ことが、いつかのたとえ話でいうと「メンバーチェンジ」停止であり、そのことが最も弱い者を飢餓にまで追い込んでしまっている。責任は特権階級だけにあるのではない、という認識ですね。
TBです。
世界中で虐殺を続けた英国が“最大の敵”マルクスを保護したとお考えですか? http://sun.ap.teacup.com/souun/643.html マルクス理論は「学問体系」ではありません http://sun.ap.teacup.com/souun/644.html
『衣食溢れて~』の範囲がどこまでと認識しているかの立ち位置の違いがわかりましたね.それと,現在の格差に対する責任がどこにあるのか,という点が最も大きな違いですね.しばらく様子を見るしかないでしょう.
早雲さま TBありがとうございます.ご紹介の記事は題目だけ目にしたことがあるのですが,「どうせ私にはわからん」ということでパスしたような気がします(泣笑).
今の私には,マルクスが“彼らの手先だった”と言われても,ただあいまいな微笑(日本人得意の)を浮かべて佇むことしかできないのです.すみません. ひとつだけ,ざっと浮かんだことがあります.マルクスの資本論は,早雲さん(あっしらさんですか?この区別が私には全く理解できていません)が自らおっしゃるように, 『見事な資本制経済社会の説明体系である「資本論」を書くことはできません』 というように,見事な説明体系を持っているのですよね.そうであるならば,鶏と卵,いずれが先なのでしょう? つまり,マルクスが“彼らの手先”になってから書いたのか,あるいはマルクスが書いたあとで,“彼ら”がその能力を認め,手先にしたのか,ということです.つづく
前者であれば,資本論の理論はマルクスでなくても書けた(マルクスは彼らの作った理論を書かされたことになるので)ことになります.後者であれば,マルクスは彼らとは独立して,つまり彼らのためではなく,自分の考えであの理論体系を作り上げたことになります.
あるいはそのどちらでもなく,パトロンとなってから,“彼らへの注目をそらす理論”を自ら研究して作り出したのでしょうか?すると,マルクスは見事に彼らの期待に応えたことになりますが,それは結果的に成功したに過ぎないわけですね.マルクス以外にもたくさん逆パトロンはいたけど,成功したのはマルクスのみ(とは限らないでしょうが)ということですか?
マルクス主義の理論的欠陥を見つける努力は必要でしょう。
この努力はコミュニストも其の反対派も両方に当てはまることですね。 マルクス主義者が、其の努力をあまりしていなかったのは事実です。結果理論的な弱体化(硬直化)が見られるようになった。 ただあっしらさんの話は理論とはいえませんね。 国際金融資本が現在の世界を支配しているのは事実ですが、資本主義以前から支配していたように読める記述や根拠なく産業資本と金融資本を全く別物と描くやり方は支持できるものではありません。 疑うことは大事でも、根拠の無い断定は何ものをも生み出さないでしょう。読みようによっては単なるユダヤ陰謀論になってします。 どんなものでも疑えないものはありません。私なんか地球が丸いと言う話も半分以上疑っています。だって如何見ても平じゃないですか。
産業資本的利益成育から金融資本的利益収穫へ
http://sun.ap.teacup.com/souun/361.html http://sun.ap.teacup.com/souun/362.html 「「競争モデル」から「独占モデル」へ - マルクス主義批判も若干 http://sun.ap.teacup.com/souun/354.html http://sun.ap.teacup.com/souun/355.html
現在の”新自由主義者たち”は金融資本家だということはよく承知しています.独占モデル,というのは数学的に言えば一種の特異点であって,そこでは彼らの利潤なんて不要なのではないかと思いました.
それよりも,『資本論』が彼らにとってきわめて都合のよい理論であった,ということが偶然なのか,彼らにとって都合のよいように,弁証法的に設計して組み立てたものなのか,大変気になっています.
新自由主義者たちが『資本論』を研究しているのは事実でしょう。
マルクス主義を理論的裏付けとして利用しているのもほとんど間違いない。 だからマルクスが新自由主義だったという話は時間と空間を無視した与太話で、現在の新自由主義者と150年前のマルクスとを無理やり時間を逆転させて論じるなどは不真面目。 あっしらさんの話は愚樵さんの内田流格差論の話と同じで、如何見ても此れは、いわゆる『釣り』でしょう。 本当に論じているはずが無い。 本気で論じているのなら、悪党かお馬鹿か、大金持ちのいずれかでしょう。しかし愚樵さんや早雲さんが悪党にもお馬鹿にも大金持ちには到底見えない。
<本当に論じているはずが無い>
それはまだ聞いてみないとわかりません.どういう論であるのか承りましょう.というのはご紹介の記事は『これこれはこうだ』という説明,伝達なので,『どうしてそうなのだろうか』という疑問は当然出てくるわけです. とりあえずは資本論に関する上の私の”気になっている点”を解消したいのです.それを説明してある記事があればご紹介戴くと助かります.)自力で探すにはちょっと時間が取れそうもありません)
面白い話をされてますねぇ。マルクス陰謀説ですか。
私にもそれが真実だとは俄かには肯首しがたいですが、一理あるとは思っています。 マルクスはリカードの経済理論を継承しました。経済学があまりにも浸透してしまった現代から見ると、マルクスがリカードを継承したことに何の疑問も抱かないでしょうが、しかし、当時は今とは違い、リカード流の経済学はまだ主流とは言えなかったと思います。少なくとドイツにおいては。 マルクスはリカードの経済学を自主的にチョイスしたのかもしれません。まあ、そう考えるのが妥当なんでしょうけど、私にはその選択にちょっと引っかかるものがあったんですよね。まだその引っ掛かりをキッチリと把握し切れていないので何ともいえないんですが、早雲さんの記事は、そうした引っ掛かりに引っかかるんですよ。 今のところはそれくらいしか言えないのですが、リカード・マルクスの線は一度考えてみなければならないと思っています。もっとも、私ごとき薄学者の手に負えるかどうかはわかりませんが(笑)。
リカードですか.労働価値説と剰余価値説ですね.なぜリカードから出発したか,という点に引っかかりを感じる,ということですか?その理由が「まだ主流ではなかった」ということですね(はっきりとは言えないまでも.)
とすると(引っ掛かりが正しいとすると),その段階ですでに,彼らに都合のよいストーリーが設計されてないといけないのですよね.なぜなら先にストーリーがないとどれが都合がよいかわかりませんから. ところで,剰余価値説が,資本家と労働者階級との内ゲバさせるに役立つ,というのは搾取という観点から想像できます.しかし,Wikipediaによれば,マルクスは 『価値概念から剰余価値概念に到達するまでに10年以上の時間を費やしている。』とあります. 従って,価値概念を継承した段階では,剰余価値の概念で彼らの期待に応えることについては見通しがまだ得られていない,という可能性が高いですね.このあたり,どのようにお考えでしょうか. ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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>価値概念を継承した段階では,剰余価値の概念で彼らの期待に応えることについては見通しがまだ得られていない
正直、そのあたりのことはまだ何とも言えません。言及しようと思うと、かなり正確にマルクスの伝記等を読んで見なければならないでしょうし。 陰謀説に立てばいかなることも言えますが、いかなることが言えてしまうことが陰謀説の怪しいところですしね。 いずれにせよ、陰謀があったからマルクスの理論は間違いなのだという論理の組み立てはしたくない。あくまで「それも一理」という程度に留めておきたい。リカード・マルクス継承の問題は、理論的な面から考えて生きたいと思っています。 |

