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新自由主義者どものいう「みんな違っていい」
2007年 07月 22日
2006年11月25日(土)の東奥日報の社説.
『安倍首相は二十二日、「私と小鳥と鈴と」と題した金子みすゞの詩を国会答弁で引用し「それぞれ能力を持ち、可能性を握っていることを認識し合う教育が必要」と続けたそうだ。』 と書いてある.そこには金子みすゞの詩も載せられていて, ・・・・・・・・ 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。 と詩われている.この趣旨は,多様性を認めあい,「ありのままの自分が受け入れられる」共生社会の実現を訴えたものだ. 社説は安部首相の国会答弁を受けて, 『「みんなちがって、みんないい」はず。なのに今、日本で首相が言うような多様な個性を生かす教育が行われているか。違いを認め合う寛容な社会になっているか。困っている人をいたわる世になっているか。』 と嘆く.この社説の目線は,弱者への想いが深い,しごく正当なものであると評価できる. ところが,である.安部首相あたりがこのような「みんなちがって、みんないい」,「それぞれ能力を持ち、可能性を握っていることを認識し合う教育が必要」,なんて口走っているのだと知った時,私は非常な違和感に襲われた.その国会答弁がどのような文脈の中で語られたのか,無精者ゆえ調べていない.その所為もあるのかもしれないが,何か安部首相の人間性の本質からすると,この社説のような目線上で語るのは非常にそぐわないような気がしたのだ. その違和感の正体はしばらく掴めなかった.まさか,「安部首相も弱者への目線を持っているのか.今まで攻撃して悪かったな」という反省ではない.「そんなはずはない」のだから.それで考えていたら,ようやくその正体を掴めたような気がする.それは 「みんなちがって、みんないい」とは,「平等で無くていい」という恐ろしい思想に歪曲されるのではないか ということだった.つまり,格差社会の理論的支柱,となりうるのだ. 無論,こんな歪曲は許されない.ちょうどよい喩えを思いついたのだが,「情けは人の為ならず」という格言がある.この格言の意味は,「人に施した情けは結局は廻りまわって自分の為になって還ってきますよ」ということだ.しかし,最近は「情けを施すのは人の為にならない(だからやめなさい)」というように歪曲・誤解している人も多いそうだ.これを最初聞いたときは大いに笑った.笑い話だと思った. 一方,「みんなちがって、みんないい」を「平等でなくていい」ということにされてしまうと笑い話どころではなくなる.よく考えてみると,一見よさそうな「それぞれ能力を持ち、可能性を握っていることを認識し合う教育が必要」という部分も,エリート教育とそうでない教育とに分断する,昨今の「教育改革」の理念を語っているようにも取れそうではないか.「言葉の文字面だけ」を追うことがいかに危険か,ということだろう. 「みんなちがって、みんないい」とは「多様性」の重要さを謳った言葉である.これに対し,「平等でなくていい」とは差別を正当化しようとすることである.今,新自由主義者どもは,「多様性の重要さ」を「格差の存在は当然」にすり替え,自らの階級のみ良い目を見ることのできる社会建設にまい進しているのだ.
by papillon9999
| 2007-07-22 01:13
|
Comments(16)
私は「平等でなくていい」と思っています。もちろん、格差社会を肯定するつもりはありませんが。
格差社会の「格差」は、ひとつの基準で測定されたときの「格差」です。世の中を動かす基準がひとつしかない場合、その「格差」は絶対的なもの(本当はそうでないにもかかわらず)になってしまって救いようのないものになってしまいます。 しかし、基準が幾つもあるなら、どうでしょう? ひとつひとつの基準についてなら「平等でなくてもいい」。どういった基準を選ぶかはみなそれぞれが独自で決め、その基準と選択が尊重される社会であれば、平等・武平等をいちいち言い立てる必要もなくなるのではないか。そんなことを考えています。
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”平等”という言葉の使い方が,愚樵さんと私では異なるだけのように感じます.私の言葉で言えば,愚樵さんのそれは”多様性”になるのではないかと.金子みすずの詩にある,鳥と私の違いです.あの世界こそまさに”基準が多様”なのだと思います.空は飛べないけど地上を早く走れる・・・
確かに,「平等とは何か」,という所から話を始めるべきだったかもしれません.ただ,私の言う平等・不平等とは,たとえばある階級の子弟は兵役に就かなくてよい法律を作ったり,大学入試でも点数を税金負担の額で買えるようにするとか,株主総会のように税金負担に応じて一人に数票を与えるとか,新自由主義者たちがこれからやりかねないことを念頭においています.そうそう,株のインサイダー取引だって,そういう立場に居る優れた人間だから,そういう特権を有して当然,なんて理屈がまかり通る時代が来ないとも限りません. 実際にそういう目論見があるかないかは知りませんが,そういうことが実際に実行されそうな不気味さを感じているので,それを文章にした次第です.愚樵さんはそういう不気味さをお感じになりませんか?
>愚樵さんのそれは”多様性”になるのではないか
まったくその通りだと思います。敵さんたちが曲解している(しようとしている?)のもまさにその点で、平等の基礎は基準の多様性にあるのが本来なのに、それを単一の基準にスリ替えてしまったということでしょう。 私の上のコメントは、たんなる“言葉遊び”だったかもしれません。 しかし、思うのです。そうした単一基準へのスリ替えが通用してしまうのは、敵たちの企みのせいばかりではなく、私たちの側にも原因があると思うのです。早雲さんが盛んに指摘されている「近代化」というやつです。結局のところ、私たち自身の足元を見直さなければ「不気味さ」を根本的に払拭することはできないわけですが、平等と基準の関係を考えるためには私の“言葉遊び”も多少は意味があるのではないかと思う次第です。
「単一基準へのスリ替え」というのがあらゆる所で起こっています.これがいわゆる”グローバル化”だったんですね.愚樵さんのおかげで”グローバル化”の適切な言い替えを見つけることができました.記事を書いてみようかな.
ただ,「平等とは何か」というのは大変深い考察が必要になると思います.愚樵さん,ぜひお願いします.及ばずながら私も考えて見ますが・・機会平等,で片付けるのはまだ浅いでしょう.
”私は「平等でなくていい」と思っています”のコメントに込められた深意を私は読み違えていたようです.私の記事で「平等でなくていい,という恐ろしい思想」なんて書いたものだから,きっと私の”生真面目さ”を心配され,敢えて悪役たらんと欲されたのでしょうね.ただ,私は生真面目なのは当たっていると思いますが,記事の「平等」は「生真面目な平等」ではなく,明らかな差別,というものを意識したものなのです.それで続きの記事では(基準の一元化)にはその辺りの混同(明らかな差別と生真面目な不平等)があるのでは,という方向に向かってしまいました.
中国は一見すると国家の統制(国民の心も)が進んでいるように見られがちです.しかし,個々の国民を見ると,勝手にばらばらな思いを抱いている,と思っています.実例として,香港返還の祝賀に対し,表面ではみんな大喜びしているけど,個々に還った時は全然別のことを考えている,そんなことを目の当たりにしたことがあります.これを見て,中国は意外と健全だな,と思ったことがあります.粒子の集団を一方向に動かそうとしても各粒子はてんでの方向に動くので容易ではありません.それを想像しました.
一方,「生真面目」なわが国民はそうではないようで,とても心配です.
こんにちは。
>中国は一見すると国家の統制(国民の心も)が進んでいるように見られがちです.しかし,個々の国民を見ると,勝手にばらばらな思いを抱いている,と思っています 私も仰る通りだと感じています。みんな結局は自分のことしか考えてはいません。そもそも政府自体ほとんど信用されていないように思います。 「お上」がどう変わろうとも自己の生存・生活が何よりも大切だという意識が非常に強いですね。 >これを見て,中国は意外と健全だな,と思ったことがあります. 好意的でいらっしゃいますね(笑)。民主主義的な意識に基づく「権力批判」「権力と一定の距離を置く」といった姿勢であれば「健全」だと評価できるのでしょうけれど・・・・ とにかく日本とは比べものにならないくらいの非常な「格差社会」ですから(むしろ階級社会と言った方が適切かも:健康保険制度など日本の方がよほど社会主義的)、この先どうなるのか他人事ではありますが、危惧せざるを得ないですね。なんとか天安門事件のような流血を伴わずに民主化の方向へ進んで行ってほしいと思っています。
どうも,コメントありがとうございます.「中国は健全」と言う意味は,決して中国社会を(良いと)評価したわけではないのですよ.お上を信用していないので,一気にファシズムに走る危険性が少ないのではないか,と言う意味です.
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昔は成金ってヤツは嫌われたものです。それが、いつからでしょう。経済的成功者が、人物としても尊敬を集め崇められるようになったのは。。。成金は、成金になった時点で、他のものまで得る必要はない、尊敬を集めるもの、自尊心を保つもの......もっと他にあるべきです。経済に全ての物差しをおいてしまうこと。これは、社会のバランスを崩すものです。
人間としての欲求のなかで、金を持つこと、権力を持つこと、尊敬を集めること、色々ありますが、それぞれが、分散されるべきです。
スポーツ競技でも,例外を除いて,勝利はほんのちょっとした運が味方した結果だ,という謙虚さが最近は薄れているように思えます.
成金も戦争に必要なものを目ざとく買い占めて,大儲けできたとか,たまたま大風が吹いて相場が大反発した,とか,運の要素も強いでしょう.いや運ならまだしも,人を騙し出し抜く能力の問題も大きいかもしれません.そういう能力に,正当な評価を与えるのはいいのですが,「尊敬を集める」というのはやはりおかしい,と思います.ある大会社の社長は同級生なのですが,「バッサバッサ人を切れる能力」に私は敬意を抱きます.人物そのものではありません.あまり言えば,ヤッカミに聞こえるので知っている人には言うのを慎んでいます. ![]()
他国から経済戦争をしかけられているのですから、同じ土俵で立ち向かわなくてはならないというのも理解できます。ただし、すべからく戦争は一般庶民を苦しめる。それが結果として「格差」を大きくしていくのでしょう。それにしても、挙国一致で世界経済戦争に突き進むなんて、ちょっとナンセンスって気がするのですが。結局、「美しい国」ってのは、経済戦争に勝つことが前提の美しさなのでしょう。せっかく力のある国、力のある国民なのですから、もっと、先鋭的で、独自的な幸せを考えても良いような気がするのですが。
今の経済成功者に集まる尊敬は、強い戦国武将に集まる尊敬と同じようなもの。戦国武将を崇めることは、戦争を認めることと同じです。経済成功者を崇めることも同様です。金持ちに、内心ちょっとは憧れをもちながらも、口先では、「ああいう奴にはなりたくないなぁ~」といえる社会がいい。今、何故か、そう言えない。本当の負け惜しみと思われてしまう気がするからかな。
今の経済戦争はこれまでとちと異なる様相を呈していると思うのです.無国籍なのか多国籍なのかわかりませんが,わが国のAという会社がその戦争に勝ったとしても私にはちっとも関係がない.中国の現地生産企業の従業員の方が喜ぶのですよね.つまり,同じ国でも,ある会社が勝ったとしてもその国の人が幸せになるとは限らない点ですね.
結局,個人,個別の会社,だけが幸せ,もっといえば従業員ではなくオーナー経営者側だけ,それも椅子取りゲームですから,他社は蹴落とされるのでむしろ不幸になる,というわけです. 最後の”負け惜しみと思われてしまう”という点に笑えない悲哀を感じますね. ![]()
昔は、経済の状態によって、株価(金融)は変動していましたけど、最近は、実体経済が株価(金融)に翻弄されつつある気がします。これは、経済というモンスターが暴走し始めているのではないかと。
物流、情報、それぞれのインフラが充実するにしたがって、交流が図れる...富が分散される...なんて理想論。実際は、強いところに吸い上げられるだけ。 経済戦争に勝っても、喜べる人たちは、極々僅かであるならば、この状態が進行する先に、経済的機会均等などあり得ないのではと思います。 政治家もジュニアでないと無理そうだし、政財界は、ますます貴族化していきそう。 是非是非、経済以外の物事に、価値の再開花をリードしてください。
「最近は、実体経済が株価(金融)に翻弄されつつある」
おっしゃるとおりに感じます.これは結局,新自由主義者たちが,金を集めて何をやるか,ということの回答,なのだと思います.彼らは巨大な金を集めて,あとやることは金を動かすだけです.ひょっとしたらそれだけしかできないのかもしれません.というよりそれしかしなくていい.何かと理由をつけて為替を変動させ,株価を上下させる,それだけで金が金を集めてくるのです.金が多い方が常に勝つ,一番の真理ですね. 「是非是非、経済以外の物事に、価値の再開花をリードしてください。」 私にですか?それは無理です.でも微力でも一緒に考えて行き(生き)ましょう!
お久しぶりです。2か月ほど忙しく、なかなか皆さんのブログを読めませんでした。2日ほど前から、少しずつ読んでいるところです。……というわけで、遅いコメントですが。……私はこのエントリを読んで、「そう言えば自由という言葉も格差社会の理論的支柱になりうるなぁ」と思いました。何やったって個人の自由じゃないか……と。うかうかと歪曲されないために、何を自分の側の背骨として持っておくべきか、と考え込んでいます。
ほんとにお久しぶりです.私も長~い中断から戻ってきてひと月半ぐらいです.「自由」もそうですね.考えてみれば「自己責任」,「改革」,「グローバル」,いずれも言葉自体には罪のない,「いい」言葉ですね.しかし文字面のみで判断してはとんでもないことになる,ということですね.その精神,意図をしっかり見極める必要がある.
彼らは決して連帯や絆を求めて活動しているのではないのですね.いかに我々を騙そうとしているか,です.これには,文字面ではなくて,その精神的なものをフリーズしておかないと,いかようにも騙されます.これには対決しかありません. 保守と新自由主義者とは違います.布引さんの思想に全面的に賛成です.保守とは政策で論争して国民の審判を仰げばよい.しかし,新自由主義者たちは保守ではなくエイリアン,無機質物体です.このことを記事にしようと思っているのですが,なかなかまとまりません. |