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『法隆寺の謎を解く』の謎を解く(6)
2006年 11月 04日
古代人さんからのコメント,「皆さんにこの本を読んで頂くことが先決ですね」に対して,私は以下のように回答した.
「残念ながら私はお薦めできません.ただし,これは学術的な意味からです.『本当はどうであったか』を追求しようとした本とは到底思えません.『本当はどうであったか』に興味のある人にとっては時間の無駄です.そうでない人には推薦と制止に関して私は沈黙します.」 ところで,この連載記事は,その続きにも書いたように,実はもうどうでもいいかな,と思い始めていた.だって,こんな本の『おかしい理由』をいくら指摘した所で何の意味もないからだ.しかし,古代人さんたちの執拗なコメントを戴いてるうちに,『かなりの意味がある』ように感じ始めた.『本当はどうであったか』という興味より『こういうことを本当にしたい』という強い意思の存在する問題だと感じ始めたのである. ただ,『最後までやらざるを得ません』と書いたが,ある程度やったら大体のところはわかってもらえるかなと思う.そこで私の『立証責任』は済むかもしれない.それにこんなことにかかわりあってばかりはいられないのだ.それでどこまで続くか保証の限りではない.(実際,私は再び,ほとんどブログにかかわれない日々がこれから一ト月近く続くはずだ.更新もままならないので皆様よろしくお願いします) なお,この連載記事でわかったことは,学術的主張者としての武澤氏への興味が全くなくなったことだ.私自身は今後,武澤氏の著作物に興味を持つことはないだろう.ただ,最終章などは,もし謎と絡めてではなかったとしたら,私は何も反論を述べることはなく,中立だったはずだ(その出来不出来は私の関心外であり,実際よく吟味はしていない). 表面からみえる部分(美的感覚のようなもの)だけを論じることは,それはそれで論じる意味があるだろうと思うからだ.その表面に隠された事に全く言及しないでも全然問題はない.要するに別のことだ.しかし,隠されたことに関係することに言及する限り,それは別のこととして見過ごすわけにはゆかないのだ. さて,『梅原氏の誤認』ということが書かれた箇所を列挙しておこう.根拠もないまま既成事実化されたことが,次のような箇所で現れる. ・p11 はじめに すでに書いた. ・p29 序章 「(梅原説は)センセーションを呼び,多くの人を巻き込んできました.しかし建築の側からはほとんど無視されてきたに等しく,言及があってもわずか数行程度のものでした.真正面からの議論を本書で試みます.」 ここには意識的に梅原説を軽んじようとする姿勢が見て取れる.すなわち,『建築学的観点からは(梅原説は)全く問題にされないほどの取るにたりない説である』,ということの“刷り込み“を見る. ・p130 第2章 「なお序章で法隆寺怨霊説を紹介しましたが,北野天満宮はまさにタタリをおそれて道真公をまつったものです.もっとも,門の真ん中に柱は立っていませんが.」 北野天満宮は梅原説通りになっていない神社のようである.ここは武澤氏も自信をもって書かれたことだろう.書き方は控えめであった. ・p146 第3章 記事(5)で書いた箇所. ・p147 第3章 ここも記事(5)で書いた. ・p154 第3章 「梅原説は事実誤認からはじまってしまい,したがって法隆寺は太子の怨霊を封じ込めた寺だという結論も怪しいものになりましたが,なぜ法隆寺でのみ中門の真ん中に柱が立ったのか,という問題意識は旺盛でした.」 ここでは「梅原誤認」が証明済みの事実かのように闊歩していることがわかる ・p189 第3章 「・・・これまでみてきたように中門の真ん中に立つ柱の意味の誤認から議論が始まっていました.この柱を論拠とする限り,法隆寺は太子の怨霊を封じ込めるために再建されたなどとはいえない.怨霊説をいうのであれば,この柱とは別のところから議論を始める必要がありそうです.」 ここでも,「これまでみてきたように」とは,ここで新しい材料で議論してきたものを指してはいない.前に書かれたケースと全く同じで,以前の「根拠もなく既成事実化したこと」がそのまま一人歩きしているのである. まだ他にも書き漏らしたことが多くあるのだが,以上でひとまず,中門に関しては終わりとしよう.
by papillon9999
| 2006-11-04 17:13
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Comments(36)
法隆寺は7世紀初頭建立の寺院を現在地に(多分8世紀になって)移築したという研究をご存じですか?
大和朝では使用されていない年号が記されていることもあります。
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papillon9999 at 2006-11-05 09:08
早雲さま お早うございます.コメント有難うございます.実は聞いたことあります.九州の観世音寺だったと思いますが,それが移築されたのではないか,ということをうろ覚えで記憶にあります.それを主張している人は古田武彦氏の学派の方だったようなことも記憶にあります.
でも詳細や理由など一切知りません. 年号は大化から始まったのに,書記だったか(?)7世紀初頭ごろを年号で呼んでいる箇所がある,とこれは梅原氏の本の中にもあったような・・・ 具体的な年号は記憶の底から出てきません^_^;)
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papillon9999 at 2006-11-05 10:29
続きを少しだけ 話がズレていたらすみません.古田氏の九州王朝説は大変興味深いのですが,ちょっと強引なような気がしてまだ本気にはしていません.
例の隋に届けた国書(日出ずるところの天子・・云々)の王の名は多利思ほ弧(”ほ”の漢字が浮かんできません)となっていて,これは九州王朝の王の名だ,と主張されていますよね. でも隋からの遣いを迎える記事が書記にもあるようですから,飛鳥王朝とつながっていたと考えられます.尤も,これさえも書紀のパクリではないかなどと私などに判断できるはずはありませんが.
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布引洋
at 2006-11-05 12:52
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戦前までは記紀の記述を絶対視して、いかに記紀等の史実を解釈するのかが歴史学だったのですが戦後は其の反動で遺物、遺跡などの実態の重要性が注目されます。
語学に堪能な梅原猛は史実の重要性に再度注目した点は評価されるでしょうが記紀などの文献に対する過度の信頼には賛成しかねるのです。 記紀は当時の歴史の本で有ると同時に、政治本でも有るので当時の権力者にとって都合の悪い事は書かないのは当然です。 単なる誤記ではなく意識的改竄が行われているのは誰の眼にも明かでしょう。 梅沢猛は記紀の記述に対して信頼しすぎているように思えて首をかしげるとことも有ります。 現実の事物から歴史を構築する作業が武澤氏によって成されたのであれば嬉しい限りですがナンタラ・バタなるインドのヒンズーの言葉を引用して説明されても馬鹿馬鹿しさに鼻白むばかりです。 記紀には多くの真実も含んでいますが、多くの誇張や明らかな嘘や政治宣伝も含んでいます。
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布引洋
at 2006-11-05 13:10
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残されている日本最古の歴史書は古事記、日本書紀ですがそれ以前に天皇記、国記が蘇我馬子や聖徳太子によって編纂された事が日本書紀に記録されています。
甘樫の丘で蘇我蝦夷が滅ぼされる時に同時に焼かれた事が記録されていますが、天皇記、国記が一つしか作られずしかも蘇我蝦夷しか持っていなかった。蝦夷に燃やされてそれで天皇記、国記は現存しない事になっています。 歴史が偽造されています。 馬子編纂の天皇記、国記には都合の悪い記述が含まれていて現存されては現政権の正当性に傷か付く、仕方が無く燃やされた事にしたのでしょう。
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papillon9999 at 2006-11-05 14:59
布引洋さま いろいろご教示ありがとうございます.史書というのはどうでもいいことは厳密に書き残し,クリティカルな部分は改竄,黙殺が加わっている,と警戒しながら見るべきだと思います.梅原さんも文献の比較によって,どこが嘘でどこがホントか,という綿密な考証をされているのだと思います.ある種の犯罪推理ですね.でもその当否は私にはよく判断できません.古代という性質上,すべてを証拠立てることはできないのでどこかに飛躍が必要なのは当然で,その発想も面白い処です.ある発想で考えてみて,駄目でまた戻る,これの繰り返しなんでしょうかね.
武澤氏へのご感想,その通りだと思います.古代人さんたちは納得されたのでしょうか.
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papillon9999 at 2006-11-05 15:09
天皇記と国記がかつて存在したこと,私も存じています.ほんとに,これが残っていればどんなに面白いか.(ノンフィクションドラマとしてですね)
『本当はどうであったか』ということが今よりはるかに解明されていたでしょうね.遠い空を睨んでため息をつきたい気分です.私は三輪王朝の歴史書もあったのではないかと思っています.それは蘇我氏以前の大和王朝が抹殺したのでしょうね.(三輪王朝はオオモノヌシと表現されていると覚えていますが).ひょっとしたら,天皇記,国記にはそれも書いてあったのでは,と思うとますます残念です.
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布引洋
at 2006-11-05 16:25
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記紀では乙巳の変では蘇我宗家の滅亡、壬申の乱では近江朝の滅亡を書いていますがそれ以上の大きな動乱が起った可能性が有りそうです。
鬼の洗たく板や鬼の雪隠は巨大な古墳の石室を破壊したものです。馬子の墓と言われる石舞台は墳丘を剥ぎ取ったものの石室が巨大すぎて破壊できなかったのでしょう。 前王朝の墓を此れほど破壊し尽くした例はそれ以前もそれ以降も存在しません。 現存する酒船石などの飛鳥の巨大石造物の多くが何の意味の物かの説明がつきません。 王朝が政治的にも文化的にも連続性が断ち切られています。 此れでは単なる王朝内部のクーデターでは説明できません。 聖なる聖徳太子伝説はまさに伝説です。聖なる徳を持った太子が必要だったのでしょう。
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布引洋
at 2006-11-05 16:47
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王朝断絶と白村江の戦との関連を考えています。
朝鮮出兵した倭国(日本)の動員兵力ですが記録の読み方で色々解釈できますが二万数千人、最大六万人以上の兵力です。 大敗北で殆んどが帰国できなかったようです。 当時の倭国の人的資源、国力の限界を遥かに超えています。 倭国にとっては白村江の戦いは日本の61年前の敗戦に匹敵する出来事だったでしょう。
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夢
at 2006-11-05 17:07
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papillon様
ようやく2冊ともなんとか読み終えました。 まだ頭の中が整理できていないの状態なので、もう少し熟成してきたら貴ブログを手引きにして感想など述べさせていただく積りです。 今の段階で言えることは、問題としている『法隆寺の謎』の中身が両者で必ずしも同じでなく、またアプローチの方法が異なっていることでしょうか。 ところで、ご無沙汰しているうちに議論が少々噛み合わなくなってきているようですね。もともとこのテーマは簡単に結論がでるようなものとは思われません。だからこそ知的好奇心を刺激して意見を交換したくなるのではないでしょうか? このブログが建設的な意見交換の場となることを望みます。その結果、考えが一致しなくてもいいのではないでしょうか? 小生は自分のブログを作ってまでこのテーマに関して自分の意見を表明する気持ちなどありません。
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papillon9999 at 2006-11-05 18:15
夢十夜さまですか? 2冊読み終えられたとのこと,ずいぶん急がれたようですね.一読しただけではなかなか整理がつかないでしょう.私もそうでした.同じ土俵に乗ってないですものね.これをアプローチの違い,と言えるかどうか.
私は記事中にも書きましたが,建築美的なものには中立で意見はありません.また,めぐる作法,それ自体に対する反論もありません.それと謎(例えば中門の)とが絡んでくる所のみに興味があります. いろいろコメントを戴きましたが,その中に本の宣伝が目的と判断したものがいくつかありまして,削除させて戴きました.証拠として手元に残してあります. 『建設的な意見交換の場となることを望みます』 それが私の願いでもあります.私の武澤氏批判記事がどのようにおかしいか,ご指摘くだされば大変嬉しいです.私もまた考えを深めることができます.無論,賛同して戴けるのならこれまた嬉しい限りです.夢十夜さんのご批判,楽しみに待っております.
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夢十夜
at 2006-11-05 20:09
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1.「法隆寺国宝保存工事報告書」(五重塔 昭和三〇年、金堂 昭和三一年)により現法隆寺の各部材寸法及び部材間隔を調査して、それが材(通し肘木)の高さを単位とする中国の木割に基づくものであり、その寸法は中国南朝尺の一尺一寸(二六・九五cm)であると断定している。その根拠は(宋・李明仲「造営方式」)及び(丘光明「中国古代度量衡」一九九六北京)であり、さらに金堂の構造は「造営方式」に明示されている殿堂方式の唯一の実在例であるとしている。
以上の事実を敷衍してこの様な背景に基づく建築は当然南朝に臣従した九州王朝の所産であり、それが現在近畿の大和斑鳩の地に存在するのは、とりもなおさず九州からの移築であると言う一種の三段論法を提示している。 2.釈迦三尊の光背銘の元号 法興元卅一年 は九州元号であること。 原文 法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼 前太后崩明年正月廿二日上宮法 皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並 著於床時王后王子等及與諸臣深 懐愁毒共相發願 (九州元号については李氏朝鮮の『海東諸国紀』による。) 3.移転元が観世音寺かは意見が分かれている。 ということのようです。
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papillon9999 at 2006-11-05 22:42
早雲さま 詳しいご教示,真に有難うございます.そうでした.九州王朝は南朝に臣従しており,独自の交易活動記録が確か残っているのですよね.九州王朝説はそれだけ見ると非常に説得力を持っていると感じています.古田氏の九州王朝シリーズの本は1冊だけ持っていますが,だいぶ前に読んだきりです.一時,古田史学に惹かれました,邪馬台国ならぬ邪馬壱国からです.他の本も読もうと思いながらそのままになっています.九州元号は『海東諸国紀』にあるのですか.
本気で読んでみようかなと思いもしますが,私の悪い癖はあれこれ手を広げすぎるのです.時間を割くか迷いますねぇ・・早雲さまは九州王朝をだいぶ研究されたのですか?布引さんの評価も聞いてみたいですねぇ^_^;)
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布引洋
at 2006-11-06 10:06
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魏志倭人伝にでてくる卑弥呼の耶馬台国の位置は九州以外には無理が有るようです。
当時は群小の国々が乱立している状態で大和朝廷などの統一王朝はまだ有りません。 倭人伝には対馬や九州北部の記述しか出てきません。大和説は皇国史観的無理、こじ付けが感じられます。 もしも邪馬台国が近畿に有ったとしても其の場所は大和の飛鳥ではなく、其れより古い河内の『近つ飛鳥』でしょう。 『近つ飛鳥』付近の二上山や高安山の西側には沢山の石室や墳墓が存在しますが研究もされず埋もれて行くのは残忍なことです。 記紀には誇張や政治宣伝的な問題点以外にも意識的な大きな記述漏れが有りますが、それでも古田氏の6世紀~7世紀まで東西に王朝が存在した説には筑紫の君の記述以外、資料が不足しすぎで矢張り無理が有りそうです。
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papillon9999 at 2006-11-06 12:01
布引洋さま 邪馬台国については,孫栄健著「邪馬台国の全解決」が素晴らしい解を提示していると思っています.それは無論,九州説です.今は絶版になっているようです.私は人に貸して未だに還って来ません.改めて古本を探し回っています.
『近つ飛鳥』付近も面白そうですね. 九州王朝説はとても面白いのですが,仰るとおり,いかんせん資料が少なすぎますね.でも可能性はあると思っています.「磐井の反乱」はその片鱗かもしれません.縄文王朝の末裔が津軽と九州に分断された,あるいは分断された後それぞれ王朝となった,のかもしれません. アマプロ問わず,多くの考察がなされているのでしょうね.
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布引洋
at 2006-11-06 14:23
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世界的にも珍しい事ですが、古代史研究がイデオロギー論争になるのは日本独自の特殊事情が関係しています。
アメリカの福音派原理主義の創造科学やインテリジェンス・デザインのような似非科学の日本版としての皇国史観は61年前までは国家公認の学説として認められていてそれ以外の学説は全て間違いとされていました。 現在でも嘆かわしいことに似非科学が日米両国では幅を利かしています。 御存知のように『新しい日本歴史を作るの会』の西尾幹二氏が産経新聞社発行の『日本の歴史』の監修を担当して例の神の手藤村氏の数十年万年前の旧石器から原人が日本独自に発展したとの珍説を展開して結果的には発行中止に為りました。 『近つ飛鳥』は大陸からの渡来人が作ったので『遠つ飛鳥』の元々の本拠地とする考えは矢張り皇国史観には都合が悪いのです。 天皇家(大王家)の父祖の地が高千穂の峰ではなく大陸の朝鮮半島にあってはイデオロギー的に問題が有るのでしょう。
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布引洋
at 2006-11-06 14:52
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聖徳太子所縁の地名が斑鳩の西方竹之内街道沿いに難波津付近にかけて多く見られます。
聖徳太子の時代に作られた飛鳥の数々の石造の建造物の目的が解らずじまいで中世には南方に在る高取城の石垣の石材として転用され多くが失われたようです。 現存する石造物も全く利用法が解りません。日本書紀には斎名明天皇が狂れ心の運河や石垣を構築して記録が残っていますが酒船石などには破壊した形跡が残っています。築城時の石材の一部になったのでしょう。 元々は祭祀に使用したのでしょうが記紀を書き残した人々とは文化的連続性が無かったのでしょう。 大王家の連続性の否定は皇国史観のイデオロギーに抵触してきます。
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papillon9999 at 2006-11-06 22:22
「本当はどうであったか」より「こういうことを本当にしたい」という人がアカデミズムの世界に存在できることが不思議でなりません.「こういうことを本当にするため」に屁理屈をしょっちゅう考えるだけでいいのであれば,本当に気楽な商売ですね(西尾氏に対して言ってます).
武澤氏も論理に対してはきわめてルーズな人のようです.でもああいう論議の仕方ではアカデミズムの世界では通用しないはずなんですが・・・(でも最近は周囲にもそういう人が増えてきているので驚いています) 江戸時代にも「漢字は日本独自の発明」ということを「本当のこと」にしたくて,資料を捏造した人がいました. 大王家の不連続は継体朝とか,指摘されていますね.太子は馬子と距離をとるために斑鳩に行ったようですね.何か非常に大きな秘密が『近つ飛鳥』の闇の彼方へ消えていったような気がしてきました.
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夢十夜
at 2006-11-06 23:19
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papillon様
まだ十分咀嚼出来ていない面もあるのですが、2冊の本そして貴ブログを読んでの感想をコメントしてみます。 仰られる様に『本当はどうであったか』が知的好奇心の中心です。具体的には現在ある法隆寺が、①いつ、そしてどのような経緯を経て、②誰によって、③何の目的で、再建(武澤氏によると新創建)されたのかということです。日本書紀は故意か否か不明ですが十分な解答を与えておりません。 梅原氏は書紀に従い創建法隆寺が670年に消失したものとし、山背大兄皇子らの家惨殺事件による「聖徳太子の怨霊鎮魂のために新創建法隆寺は和銅から養老にかけて斉明帝と鎌足の血を引く時の権力者によって再建された」という仮説を立て、これにより中門の真ん中にある柱など七つの謎を解いていく。<続く>
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夢十夜
at 2006-11-06 23:20
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<続き>
武澤氏は最近明らかになった五重塔と金堂の使用木材伐採年代の年輪鑑定結果から新創建法隆寺の一部が創建法隆寺と並存していた可能性を示唆し、金堂の釈迦三尊像の謎などに迫っていく。聖徳太子怨霊の鎮魂説の立場はとらない。 コメントですから詳細は省きます。武澤氏の文章のなかには筆の走りすぎるところもありますが、小生には武澤氏の方に説得力を感じます。新しい事実が出てきたことが大きいでしょうが。少なくとも法隆寺について『本当はどうであったか』を考えるには武澤氏の説は無視できないのではないでしょうか?
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papillon9999 at 2006-11-07 10:05
夢十夜さま 感想を寄せていただきありがとうございます.これまでの私の記事では全体のストーリーと中門に関する二人の主張を比べてみました.この後,金堂や塔や秘仏救世観音などに言及していく予定です.
従ってまだ記事にはしていませんが,他の箇所でも中門での分析と似たようなことを指摘しなければなりません. 新しい事実とは金堂天井板の伐採年だと思います.これは私も記事(2)に書いていますが,この材料は第三者の結果を用いて客観性がありそうです.しかし, 天井板だけで建築年を確定していいのか, 金堂だけずいぶん先行して建築されるのは不自然ではないか, など私はいくつか疑問点を持っています.武澤氏の考察は伐採年のデータのみを使って,あとは想像で組み立ててあり.私は説得力を感じませんでした.いずれ記事にする予定なのですが.
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papillon9999 at 2006-11-07 10:05
でも夢十夜さんは,説得力がある,と感じられたのであれば,それでいいのではないでしょうか. それにしても,金堂の釈迦如来や薬師如来が,通常とは異なる印相を結んでいる(梅原氏は舎利瓶を持っていると見る)とか,秘仏救世観音が1千年以上もぐるぐる巻きにされていたとか,救世観音の光背は脳天に直接釘で打ちつけてあるとか,仏像たちの異様な姿になんら想いを馳せてない処には,私はとても浅い考察しか見ることができないのです.
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papillon9999 at 2006-11-07 11:23
『梅原氏は書紀に従い創建法隆寺が670年に消失したものとし』
これは武澤氏も同じことですね. 『あとは想像で組み立ててあり』 これはちょっと言いすぎでしょうか?安全のため『ほとんど』としておきます. 五重塔(心柱?)の伐採年も新しい事実ですが,これは議論の本質には関係してないように思います.年代がずっと下がりますから.
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布引洋
at 2006-11-10 12:03
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千数百年前に何が有ったか。彼等は何を考えて、何を信じたのか。?
現在起こっている事柄でも解釈は夫々違い真実は藪の中。 国防相を更迭したブッシュ大統領の会見で『疑うな、恐れるな我々は一緒にいる。敵には裁きをもたらす』と発言しています。 旧約聖書等の記述解釈の知識が無いと彼の発言の真意は理解できないようです。 此れほど宗教的な最高指導者は近代国家には珍しいのに、日本の政府与党にはどれ程までに宗教がアメリカにとって重要な位置を占めているのか理解していません。日本のマスコミも全く理解していません。宗教に対する無知が蔓延しています。 確かに現在の日本を理解する上での宗教の果たす役割は限りなく小さい。日本人が宗教音痴になっている所以でしょう。 明らかな宗教的行為を、其れとは感じていません。他者や自身の宗教的行為を宗教ではないと誤解しているのです。
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papillon9999 at 2006-11-10 17:35
日本国憲法の政教分離は従ってとても素晴らしい理念だと言えましょう.『神』が決めたことではなくて,社会を構成する『人間』が決めてやっていくことを要求しています.
ブッシュなどは『神』の後押しがないと決められない.逆に『神』の要求だと思い込んでしまえばなんでもできてしまう.その心性は恐ろしいです.
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夢十夜
at 2006-11-13 23:33
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apillon様
確かに梅原氏の夢殿・救世観音についての記述は鬼気迫るものがありますね。 武澤氏の著書には夢殿についての記述はありますが、救世観音については殆ど触れておりません。 ところで、梅原氏の記述では救世観音が怨霊封じのために当初から白布が巻かれていたかのように記述されていて、少々気になりましたので調べてみると次の記事がありました。 http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka50418a.htm これによると一昨年から昨年にかけて旧厨子の発見があったそうです。救世観音が秘仏化されたのは12~13世紀のころで、初めから白布が巻かれていた訳ではなかったようです。 <続く>
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夢十夜
at 2006-11-13 23:40
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<続き>
それから前にご紹介した「悪霊物語(永井路子)」冒頭の「早良皇女」の章ですが...。 あくまでも小説ですが、聖武天皇と光明皇后が恐れたのは、藤原不比等らにより「長屋王の変」で抹殺された天智・天武・蘇我系の祟り(その象徴が早良皇女)であるとしています。それはそれで説得力があります。 もうひとつ 町田申一氏の「大和古寺巡歴」講談社学術文庫(1989年10月第1刷)が入手できましたので要点をメモしてみます。 ①橘(三千代)夫人の死後である天平11年に莫大な寄附が記されている が、娘の光明皇后の意思で怨霊封じのために亡母と亡兄を利用し たとしているが、橘夫人は三千代ではなく孫の橘少夫人・古邦可智 であったこと。 ②救世観音の体は背面が空洞であることから呪いの人形としているが、 実際は背面も彫刻されたおり、中空ではない。中空としたのはフェノロ サの記述の間違いでそれを梅原氏は引用 している。 などの理由から怨霊説に否定的な立場をとっています。原文を読んでいただけるとよいのですが... 以上、取り敢えずご参考までに。
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papillon9999 at 2006-11-14 10:57
夢十夜さま いやあ,これこそまさに『噛み合った議論』だと思いますよ.白布に関する過去の記事とか,よく調べられましたね.橘夫人にも橘少夫人と呼ばれた孫がいたのですか.
救世観音の裏側は梅原氏も実際見たのではないでしょうか.背面は平面なんですか?平面部分に彫刻がある,ということでしょうか?これはちょっと問題かもしれませんね.それとも厚い皮の裏側に彫刻があるのでしょうか? でもこうなってこそ『本当はどうであったか』に近づいていけると思いますね.
Commented
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papillon9999 at 2006-11-15 18:05
夢十夜さま 読売ONLINE
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka50418a.htm によれば,12世紀の大江親通の『七大寺巡礼私記』には観音像をかつて見たという土地の古老の話が載っているそうですね.その姿をくわしく教えられた様子が書かれているとか. それはどんな様子に書かれているのかわかりませんか?
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夢十夜
at 2006-11-16 00:11
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papillon様
まず、コメント(11-13 23:40)に誤りがありましたので一部修正させていただきます。申し訳ありませんでした。 <それから前にご紹介した「悪霊列伝(永井路子)」冒頭の「吉備聖霊 忘れられた系譜」の章ですが...。 あくまでも小説ですが、聖武天皇と光明皇后が恐れたのは、藤原不比等らにより「長屋王の変」で抹殺された天智・天武・蘇我系の祟り(その象徴が吉備皇女)を恐れたとしています。それはそれで説得力があります。> としてください。 救世観音の背面について 町田氏によると、「救世観音は北魏後半期の石窟の浮彫の様式から由来したもので、側面観照が全く考慮されていない。いわゆる正面性の様式である。」としています。 フェノロサが『背後は中空なり』と書いたのは金堂の釈迦三尊の両脇侍の場合と混同したためのようです。像身は丸彫りの一木彫成像であり、梅原氏は、像背を自分で確かめずに「救世観音の体は中空である」としたのではとあります。 なお「背面も彫刻されており」としたのは小生の誤りです。御免なさい。町田氏には背面もつくられており」との記述はありますが...。 <続く>
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by
夢十夜
at 2006-11-16 00:14
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<続き>
大江親通の『七大寺私記』について詳しく知りたいところですが、今のところ読売オンライン以上のことは判りません。 町田甲一「大和古寺巡歴」の法隆寺の部分をやっと読み終えました。 この本は美術史の専門家によるもので、謎解きというより、古寺や仏像の観照が主目的です。 一読されることをお勧め致します。現在、絶版になっているようですが、アマゾンで購入可能です。
Commented
by
papillon9999 at 2006-11-18 08:25
夢十夜さま 夢殿は八角円堂ですが,これは墓を意味しているという意見をどう思われますか?興福寺にある八角円堂(北円堂)も不比等の墓だそうですが,どうなんでしょうか.もし墓であるとすれば,太子の死後,120年ほども経ってから墓が建てられた,という事実が重要な意味を持ってくるように思うのです.
墓というよりは「霊安室」といった方が良いかも知れません.(初出2006-11-17 23:08の分に追記)
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by
夢十夜
at 2006-11-18 18:02
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papillon 様
難しい問いですね。 仏教について詳しい訳ではないですので、私の考えということで答えてみます。 まず、お墓の定義ですが、「死者を弔うために、そのまま(土葬)あるいは荼毘に付した(火葬)した死者を収容する場所」とでもなりますか。 儒教流に言えば死者の魂・魄の『魄』を収容する場所となりましょう。 興福寺の北円堂はこの定義によるとお墓ではないと思います。 書紀によると太子は推古29年、斑鳩宮で薨去され、磯長陵に葬られています。夢殿は太子の慰霊あるいは供養のために建てられてもお墓とはいえないと思うのですが。 あくまでも私見です。
Commented
at 2013-10-29 22:13
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
特命希望
at 2018-07-27 13:58
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>史書というのはどうでもいいことは厳密に書き残し,クリティカルな部分は改竄,黙殺が加わっている,と警戒しながら見るべきだと思います.
董狐之筆って知ってます?後日本書紀に異伝がどれだけ書かれているのやら。 |