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『法隆寺の謎を解く』の謎を解く(4)
2006年 10月 30日
(2)武澤説
先に梅原氏の説を結構詳しく紹介したが,私はこれで一番いいたいことは,梅原氏の仮説の紹介そのものというよりは,それもあるが,最も重要な点は彼がその仮説を導くのに,どんなに苦心して論説を積み重ねているかということである.そこには議論一つ一つのの必然性というものが見られる.この議論は次のどういう部分につながっていくか,ということだ. 一方,これから紹介する武澤氏の議論はつながりがよくわからない点があったり,論理や批判にもおかしな部分があったりすると思うのである.文章はとても滑らかで表面的にはスーッと行くのだが,その字面から離れて全体を俯瞰してみた時,あるいは細かい部分を改めて吟味した時,「あれっ? あれはどうなったの?」といった違和感が生じるのだ. でもまあ,私の感じ方が妥当なものかどうか見ていただくことにしよう.皆さんは果たしてどうお感じになるだろうか.とても興味深い.参考のため書いておくと,武澤氏の本は新書版で275頁分,一ページあたりの字数は1行41文字で16行ある.梅原氏の本はA5版で445頁,一行44文字で20行であるので分量はだいぶ違っている. ・「めぐる行為と中門の柱」 武澤氏はインド各地を数回にわたって行脚したそうである.その経験を通して強く印象に残ることがあったそうだ.それは,人々が寺院の周りや中をぐるぐる回る,それがそのまま祈りの行為になっている,ということだ.それで,このめぐる行為と中門の柱の関係を非常に重きを置いて議論している. 氏は「はじめに」で,そのインドでのめぐる行為への印象を述べると共に,そのインドで(だと思うが)あることに思い当たった,と書く.その部分は,武澤氏の議論の「性質」,「やり方」を理解する上で重要だと思うので,少し長いがそのまま引用する.(p11) 「かなり前になりますが,法隆寺は怨霊と化した聖徳太子の霊を封じ込めるために建てられたという梅原猛氏の説が一大センセーションを巻き起こしました.その説は門の真ん中に立つ柱に注目することからはじまっていました.その柱が出入りを妨げている,いわば通せんぼうをして怨霊を封じ込めているというものでした. そうだろうか.インドで経験するように法隆寺でも聖域をぐるりと回っていたとすれば,門の中に立つ柱の一方の側から入り,もう一方の側から出てくることになる.そういう動きがあったとすれば,門の真ん中に立つ柱が出入りを妨げている,とみるのはまったくの誤認ということになる.」 ここで武澤氏は,『めぐる行為には中門の柱はちっとも邪魔にならないではないか.従って,梅原氏の「通せんぼう説」は「誤認だ」』と言っているのである.そして,この『誤認』というのは,ここから始まってこの本の終わるまで何度かあちこちに顔を出すが,すべてこの意味で用いられている.しかも,この理屈だけで『誤認』ということの証明,あるいはオーソライズが済んだというような使い方である. しかし,よく見て欲しい.上の引用文の下線部を比べてみよう.上の下線部は『怨霊を通せんぼする』ということを主張している.ところが,第二の下線部は『人間が通るのに何の妨げにもならない』,という意味である.つまり,『怨霊』に対して言ってるのに『人間』に対して問題ないから誤認だ,と言っているのである.これがどうして『誤認』なんだろうか.『誤認』というには,『怨霊が通るのに問題ない』と言わねばならない. これこそ『武澤氏の第二の誤認』ではないのか.(武澤氏の『第一の誤認』とはいうまでもなく記事(3)ですでに指摘したように,梅原氏の議論の順序を誤認していることだ.先に『怨霊仮説』があって,それで見ると中門の謎が解ける,法隆寺の他の謎も解ける,という順序である.) この『誤認』がここだけで閉じていれば軽く見過ごすこともできる.しかし,これはこの後,何箇所も出て来て重要な印象操作に役立つのだ.そのことは次の項目でまとめることにして,ここでは『めぐる行為』について,議論の続きを見ていこう. めぐる行為にここで初めて触れた後,この本では実に多くのスペースを割いてめぐる行為を基に議論する.ではめぐる行為で中門の謎が解決できたのかと言うと,それが全く違うのである.第3章「法隆寺は突然変異か」では,p155にこう書いてある. 「法隆寺でとくにめぐる作法が重視されていたから,中門の真ん中に柱があるのだろうか.法隆寺ときわめて近い関係にあった法輪時や法起時でも,こういう柱はありません.したがって,そのような理由は消えます.」 つまり『めぐる行為』では中門の柱の謎は解けない,というのである.それで結局は別のアプローチが必要,と論じ始める.そのアプローチが建築学的アプローチである.そして結局,中門の柱は金堂と五重塔の間にあって,中軸ラインに立つ扇の要,構図を引き締める絶妙のアクセントとするためであった,という結論にたどり着くのだ. 読者の方の熱心なご意見を戴くので,キリのいい所でまとまる前にアップしなければならなくなった.ちょっと考えていたのとペースが違うが,本日は予定を変えて,ここでアップしよう.もっとじっくりしたペースでやりたいなぁ・・・
by papillon9999
| 2006-10-30 18:31
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Comments(13)
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インドという所は何かにハマル場所らしい。
インドでハマッテしまった友人を知っています。竹澤氏もハマッテ仕舞ったのでしょう。仕方が有りません。 インドは熱帯から寒帯、砂漠から豪雨地帯、低地からヒマラヤ、過去から現代までナンデモありの国ですから自分の好きな物を見つける事が出来るでしょう。 見つける気が有れば聖人から生き仏まで見つける事が出来ます。 インドに仏教を見つけに行ったとは・・・いやはや、玄奘三蔵の時代でも多少無理が有ったと言うのに、・・・インドでは見つけられない物は有りませんが。 ヒンズーの影響下のインドやチベットは聖なる物の周りを回るのは各地で見られる風習です。聖地カイラス山を回る巡礼は有名。 日本では回ることに宗教的意味が有るとは思えません。 お百度参りも回ること其の物が目的ではない、叡山の千日回峰や修験道の奥がけ修行も聖地や修行場を巡るもので何かを回るものは有りません。 日本でも教典を回転して読んだ事にする事例は有りますが、修行者自身が回転する例はあまり無いようです。 柱を回る風習は古来の仏教ものではなくヒンズー教に其の由来を求めることが出来そうです。
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柿の葉さんが何故武澤氏にハマッタかには興味は有りますが、武澤氏には興味は有りません。
ブログ主と柿の葉さんの解説の御蔭で大体の内容は理解できそうです。 親切に推薦して貰っても流行のベストセラーを読む趣味は残念ながら私には有りません。 流行ってから数年後に、ゆっくりと読む事にしています。因みに今はスティーブン・ホーキングに凝っています。この方法ですと同じ予算で十倍以上の著作が読めます。しかも何故この様な著作が書かれたのかの時代背景まで読む事が出来るでしょう。 人々があまり知らないインドやチベットの仏教を引き合いに出して純真な若者達を誑かしたのは何も麻原一人では有りません。 インド・チベットへ行けば真理に出会えるのであればそれ程幸せな事は有りませんが、インド仏教がブッダの解いた真理と懸け離れているのは仏教関係者なら知らない人は居ません。 インドの話を狂言回しの種にして日本の仏教の何たるかを語るとは、武澤氏の知性と見識がオウム真理教と同程度と言われても仕方が無いでしょう。 若し興味が有ればオウム関係の著書をお読み下さい。武澤氏や柿の葉さんと論理展開やその他の共通項が多い事に驚かれることでしょう。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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布引さん
そこまでいわれるのでしたら、やはりオリジナルをお読みになってからでしょうね。議論の場を保つために、失礼ながらひとこと申しあげます。 ![]()
「法隆寺でとくにめぐる作法が重視されていたから,中門の真ん中に柱があるのだろうか.法隆寺ときわめて近い関係にあった法輪時や法起時でも,こういう柱はありません.したがって,そのような理由は消えます.」
>つまり『めぐる行為』では中門の柱の謎は解けない,というのである. この、「つまり」以下が、オカシイ。引用箇所の前の部分との流れから、そういう意味にはならないのです。 残念なことに、読書力の問題になってきてしまいました。 ![]()
布引氏へ、再度。
あなたは暴言を吐いたことによって、あなた自身の思考力と人格の程度を自ら暴露してしまいました。 その度、沈黙していますが、発言を撤回するよう求めます。 しないのでしたら、『武澤秀一著『法隆寺の謎を解く』が >武澤氏の知性と見識が※※※と同程度 であることを論証しなさい。 もちろんいうまでもなく、オリジナルに基いて、です。
布引洋さま 布引さんのコメントで皆さん沈黙されたか,と思いましたが,どうもそうではないようですね.『インドでは自分の欲しいものを何でも発見できる』.うーん,なるほどと思います.
どうも本の宣伝をコメント欄を使ってなされているようで,どうも『本当はどうであったか』にそれほど興味は持っておられないように感じます. ![]()
ブログ管理者へ
上記、布引氏の発言について、ブログ管理者として沈黙しているのは理解に苦しみます。
つづき めぐる作法が法隆寺に重要な役目を果たしたのであれば,そういう議論に対しては私は何も意見はありませんよ.それが新発見なのであれば,そういう趣旨の主張をなされてはいかがですか.
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>布引さんのコメントで皆さん沈黙されたか,と思いましたが,どうもそうではないようですね。
ブログ管理者がそんな呑気なことでいいのですか? この件は管理者が適切に処理すべき性格のものと思い、ひたすら待っていたのですが…。
柿の葉さま 布引さんのコメントは『武澤氏の知性と見識がオウム真理教と同程度』という断定ではなく,『と言われても仕方が無いでしょう。』です.私見では私が特に処理すべき問題とは考えません.
どうも建設的な意見の交換ではなくなって来たようですね.コメント欄での意見交換は不適当かも知れません.ご自分でブログを立ち上げて私の記事を批判されてはいかがでしょうか.誰にもその機会は与えられていますよ. ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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