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ペナルティということ
2011年 11月 20日
これまでに何度も書いたことと同じ趣旨を繰り返すことになるが,この記事では新たな言葉で表現してみる。それは『ペナルティの欠如』である。それはもう,ほとんど我が国の風土と化している感がある。
『ペナルティの欠如』という言葉は,責任を取るべき人が『だれ一人責任を取らない』という我が国の伝統・特質を裏の方から表現したことになると思う。「責任をだれも取らない」から,強制的に取らせるということが必要,それがすなわち「ペナルティ」ということである。 誤解はやめて欲しいが,別に刑事罰を科せ,と言ってるのではない。再びその任に当たること,その責任者を継続すること,それを控えるべきである,という主張に過ぎない。自ら「控える」ことは「責任を取る」ことであるが,それが期待できない時,「責任者としての立場」を解任すること,それがペナルティである。その後はその責任に関係のない第三者に引き継がせなければならない。ほとぼりが冷めた頃,また知らぬうちに復権している,ということもやめて欲しい。ついでに言えば,その責任と関係のない場所(事業など)へも,責任者として就くことは遠慮すべきだし,それをさせないのもペナルティの中に含まれる。 余人を以って代えがたい,などと自惚れてはいけない。そういう貴重な人がいるとしてもほんのわずか,大抵のことはちゃんと代わりが務まる人は必ず居るものである。ただし,もし真の反省をして,謝罪し,かつ余人を以って代えがたい(それほど強くなくても),というのであれば話は別である。失敗の経験を活かしながら名誉回復を励みにして真に国民のために頑張ってもらえば良い。 ペナルティは単なる仕返しで意味が無い,などというバカ者がいるが,それはわずかながらの,せめてもの歯止めとして必要不可欠の社会装置なのだ。そういうバカは早く卒業してもらいたい(実は誰かいそうな気がしている)。 ところで,この『責任を取る』というのには微妙な点があって,慎重を期して細かいニュアンスを書き留めておきたい。(ただし,常にきちんと色分けできるというのではない。境界は灰色であるが,まあ,どちらの色が濃いかという程度で考えて下さい。) ここでいう,『責任を取るべきこと』というのは,『明らかに悪い結果が予想されること』を論理的に指摘されておきながら,それに対する『正当な反論』に拠ることなく,あるいは『ごまかしや隠蔽に基づくウソの反論』に拠って『あくまでも強行したこと』に対する『結果責任』である。そうするより仕方が無かったのだ,という理論は『正当な反論』に含めても良いが,その論証をしっかりやらないといけない。 一方,よく似ているが本質的に全く異なる状況が存在する。それは『単なる見解の相違』に帰着できるようなことである。喩えが小さいが,野球でいえばバント作戦のようなものである。たまたまバント失敗で,小フライゲッツーになったとしよう。(昨日のJシリーズ第6戦,ソフトバンク長谷川を思い出そう。見たのはたまたまだが)。これはたまたま悪い結果となったのであって,こういうのに指揮官の失敗で責任を取れ,というのではないことを念のため特に強調しておく。 こういうのは,『やってみなければわからない』という面と,『たまたま運が悪かった』という面が重なっただけなのであり,こういうものをバッシングしてはその国と国民は終わりだ。あるいは『試行錯誤』して進めないといけない場合もある。 そう,こういうことを『結果論』というのではなかったか。批判する側の無責任の代表である。(無論,バントだって,結果論ではなく批判されるべき時だってある。時と場合によって変化するので,これも誤解無きように。) 実はこの種の混同もよく見られる。この種の混同を意図的に為し,『あのことを批判するのは結果論に過ぎない』,というような擁護論を展開するのは,かなり悪質な印象操作の部類に入れる事が出来る。つい最近,或る処のコメントで眼にしたことである。 こうしてみると,今回の福島原発事故と先の日中・太平洋戦争とが実によく似ていると感じるのだ。ある種の人にとっては,戦争など持ち出すと,”またか”と辟易するようなことかもしれないが,我が国の無責任風土を考える時,あの日中・太平洋戦争に触れないわけにはいかない。責任はどうなったか。 戦犯だけを血の犠牲として捧げて,あとはすべて水に流してしまったではないか。国民自らは一億総懺悔に逃げ込み,責任に対して何の総括もせず,その所在も公には明らかにしなかった。それどころか,死刑を免れた戦犯たちは公職追放から早々に復帰し,七三一部隊の残滓ともども戦後の我が国を運営する要職を占めた。戦争に関して我が国にはペナルティというものがなかったのである【注1】。 今度の原発事故。なんと戦争処理ににていることだろう。いや,それより悪い。何より,『死刑になった戦犯』さえ存在していない。菅前首相?責任は取ったことには全然なっていない。 一方,小出氏らは子供以外のすべての大人に責任がある,という言い方をなさる。それは確かにその通りで,それについては何もいうつもりはない。しかしながら,国民全般の一般的な責任と『責任者の重い責任』とを同列に論じることはどう考えてもおかしいことである。一億総懺悔に通じる。もちろん,小出氏だってそういう責任の軽重は弁えた上での話だろうと思うので,別に小出氏を批判しているわけではない。 本記事の趣旨でいえば,原発を継続するにしろやめるにしろ,それを議論する場所に,今回の責任を負うべき人たちが堂々と関わっている,それは大いに批判されるべきこと,許されないこと,を言いたいのである。 【注1】 戦争に突入した原因を反省して,その間違いを二度と起こさないような方策が日本国憲法に具現化されたのであるが,それはペナルティでも何でもない。これからの自分たちの心構えの類いだから。我が国民はこれによってむしろペナルティ問題を重要視しなくなった面があるかもしれない。 ■
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by papillon9999
| 2011-11-20 10:18
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Comments(4)
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タイトル : プロメテウスの罠,その2
「観測中止令」の第2のエピソードは,科学雑誌「ネイチャー」への論文投稿の話である(「観測中止令」(6)~(9)).「福島原発から出た放射性物質の海洋環境への影響」というテーマ...... more ![]()
原発批判を結果論だという人が
いますね。これにはあきれてしまいます。 エントリーに書かれた『責任をとるべき事』 の定義にぴったり当てはまっています。
結果論ということはありえませんね。推進派の回し者でない人がそういうえこひいき思考で庇う心性がパピヨンには到底理解できんです。
国のやることに口出しするなというこつかもしれんが,不思議なことに自民党政権の時だけ。 民主党政権の時は,国のやることに口出しすんなとは言わんもんね。 尤も,民主党もだめばってん・・・ ![]()
『結果責任』ということは、原発でも
たまたまうまく行ったらそれでいいと いうことですか?
もちろん、原発がうまく行けるのであれば全く問題ないです。ただし、そこには重大な条件がつきます。すなわち、完全情報公開と運営に国民主権が厳密に適用されることです。利権の巣なんてならないことも。
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