アルバイシンの丘
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随想や意見,俳句(もどき)

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宗教と人間の脳との関係(3) 一神教の起源
 前回の話では,「内在する神」と「外来の神」,およびそれらの葛藤,という点まで進んだが,まとめの都合で実は少し話が飛んでいる.「神の神経学」はもう少しキメの細かい議論を展開している.一神教の起源を探る意味でも非常に面白い部分なので,少し詳しく見よう.



 原始人の脳では,いきなり「内なる神」を認識するにはまだ程遠かった.その段階では自然との素朴な感情のやり取り,つまり太陽の恵みや日食の恐ろしさを経験すれば太陽信仰,自分たちの生活を支えてくれる動物がいればその動物信仰,等々に過ぎなかったであろう.それらは部族全体で共有できるはずで,葛藤すべき「内なる神」は存在しない.そういう「外なる神」が自然と「内なる神」でもあったはずである.
 しかし,このような素朴な「外なる神」とユダヤ教などの一神教の「外なる神」とはその抽象性において全く異なる.この間,脳はさらに進化を続け,各自が「内なる神」を持てる段階にまで発達したのである.その段階ではそれぞれ異なる「内なる神」を持ち始めて,「素朴な外なる神」との乖離が起こり始めたであろう.
 ここから,ユダヤ人やアラブ人など遊牧民たちと,アジアの農耕定着民族たちの神の概念が異なるものになっていったと考えられる.すなわち,遊牧民たちは定住ではないため,常に異民族と対決しなければならなかった.農耕民族にももちろんあったろうが,その必要性ははるかに少なかったはずだ.部族民それぞれの「内なる神」であっては困るのだ.部族一致団結し,民族を統一するための「強い神」が必要になった.「素朴な外なる神」であっても役に立たない.このレベルの神になると,自然に出来上がるものではない.民族みんなが納得し,命を捧げるに値する「立派な神」でなければいけない.
 これはきっと,ある時期に優れた宗教指導者が現れて,彼の脳内で理論的に作り出されたに違いない.その天才指導者内に生まれた「内なる神」が,民族統一のための「外なる神」へと投影され,受け入れられたものと考えられる.以上要するに,厳格な一神教がユダヤ人やアラブ人の間に生じたことは偶然ではない,ということだ.(この部分,かなり意訳.)
 一方,多様な「内なる神」に比較的寛容でいることができた農耕社会では仏教が現れた.仏教では多種多様な仏が存在し,仏像も様々に作られ,個人が自己の内面と向き合う姿勢,哲学が発達した.

 以下は私の考えだが,このように見ると,今ではよく知られるようになった,一神教における「偶像崇拝の絶対禁止」という必要性が私にはよく理解できる.例えばエホバ,またはアラーの像を作って,キリスト教がイエス像やマリア像にやるみたいに崇拝するものとしよう.すると,いろんな作者が出て,いろんな像や絵画ができることだろう.イエス像やマリア像と同じように.
 これから何が起きるだろうか.きっと各個人個人の神経回路に応じて,多種多様なイメージや思いを産み出すに違いない.同じものを大量にコピーできても同じだ.これが次第に個人個人の「内なる神」を呼び覚ますきっかけとなる恐れは非常に大きいと思う.従って,共有するべきものはたった一つ,頭の中に刷り込まれた,唯一の「神」なのである.名前すら気軽に呼んではいけないのだ.なぜなら,身近になればなるほど多様な反応を引き起こす可能性があるからだ.神は遠くから一人一人を見ておられる(だったと思う).(「エホバの証人」が主張する,「エホバ」の御名を親しく呼ぶ,というのはこの観点からもおかしいとわかる.もっとも,彼らの論理の滅茶苦茶なことはこんなレベルではないので念の為.)

 ところで,キリスト教も一神教ではないのか,それなのになぜイエス像やマリア像が夥しく存在しているのだ,という疑問が生じると思う.実はキリスト教は一神教といいながら実に苦しい立場にあるのだ.それはイエス信仰と神信仰(イエスを遣わした神が存在する)という二つが元々存在するからだ.これにどう折り合いをつけるか,パウロが大苦心した所,キリスト教の真髄部分である.その解決策が三位一体の教理であった.すなわち,「神」,「キリスト・イエス」,「聖霊」は同じ一つの神の同位体とみなすのだ.(一見,苦し紛れのようだが,私には理解できそうな気がする.前々回に記事に書いた,ヨハネ伝の第1章の存在だ.これは改めて書くことにする.)ともかく,形式的に一神教は保ったものの,すでに神自身が別の形となって現れているのだから,イエス像の禁止というわけには行かなくなったのであろうか..
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by papillon9999 | 2006-02-27 01:15 | 済み | Comments(5)
Commented by dankkochiku at 2006-03-01 10:25
またお邪魔します。
人間の脳の進化段階で、神を必要として内なる神を誕生させ、次に部族統一のため外なる神を誕生させた。つまり、人が神を作った、ということでしょうか?そうならば、その神を信仰するのは偶像崇拝になりませんか?当方の不理解、ご容赦の程を。
Commented by papillon9999 at 2006-03-01 18:19
アラーやエホバの神を崇拝することは禁止ではなく,心を込めて崇拝しなければなりません.問題は崇拝の仕方です.像や絵を作って崇拝したり,動物や石や星に宿ったと言ってそれらを崇拝したりしてはいけない,宗教指導者が外から与える”神”のイメージに対してだけ崇拝しなければならない,という意味です.遊牧民たちはそのような行き方を選択したのです.
Commented by MS at 2007-11-16 11:06 x
残念ながらパウロの時代には三位一体は定まっていませんでした。これはハルナック流の近代主義の歴史学をとるまでもなく、教父の時代から指摘されていたことです。神の「同位体」と言うよりもむしろ「ひとつの本質にペルソナが三つ」と言う意味です。(tres personae in una subsutantia)

マタイによる福音書の最後の部分に、イエスによる宣教指示の言葉として三位一体の定式が見えるのが、聖書における唯一で最初のものです。これは根拠にはなりえますが、同時に無前提的解釈のみのファンダメンタリズムの行き過ぎによっては拒否されうる箇所であると言えます。

無前提的解釈は、日本人の良く陥りがちな「過ち」でもあり、それ自体が論理「学」的に不可能です。一切の論理は何かしらの「前提」を持っており、別の「前提」を持つ論理体系に対しては、その正しさは証明できないのです。ある意味で日本人とファンダメンタリズムとがメンタルな面で、「実は」似通っていると言えなくもないでしょうが。前提の正しさの応酬に終始してしまうのですが、「議論における前提ではなんと定義されていたか」を汲み取ることでしか相手と本当の意味で議論できないのです。
Commented by MS at 2007-11-16 11:07 x
おそらく日本人は切り離して考えがちですが、三位一体論には「時間論」が大きい役割を担っています。「天地」の創造と「時間」の問題を深く反省した結果が三位一体論であると思います。現代人に分かりやすく「父を過去、子を現在、聖霊を未来」と捉えることは、便宜的に可能であるかもしれません。一体にして不可分です。

しかし、古代における議論どおりに問いを立ててみるのが古代人に対する礼儀と言えるでしょう。「神がこの世を作ったとすれば、その「前」には何をしていたのか」、という疑問に答えようとしたものであると言うのが三位一体論の本質的な問題であろうと思います。「時間」を被造物であると考えるか考えないかで、大きく異なると言うことになると思います。正統派は時間すら被造物に過ぎないと考えました。

東方正教会には聖像とは違うイコンがあり、それは「実体」を通して「見る」ための「窓」です。それ自体を崇拝しているわけではない、と言うことは信徒もよく自覚しているようです。東方教会でで積み上げられた「実体」に関する議論も、なかなか深くて味わい深いものです。
Commented by papillon9999 at 2007-11-17 08:54
ここにもコメントされていたのですね.見逃しており,失礼しました.
『パウロの時代には三位一体は定まっていませんでした』
これは確かにそうです.厳密に言えば私の間違いです.どこかで訂正したような気がしたのですが見つかりません.すみません.
ただ,三位一体の教理は4世紀?のニケーア会議で公定されましたが,パウロの贖罪論にその源があるわけです.神と神の子(復活)と聖霊(奇蹟)の能力は「神の能力」そのものです.神の能力を持ったものを三つも作り上げたのですね.従ってパウロに続く者たちが『神が三体いる』ということの不自然さ(神は唯一,に反する)を調和させるために苦心した,というべきです.
コメントのその後の部分は申し訳ありませんが趣旨がよく理解できません.すみません.